「美しい棺」





帝の虎狼





 そこは地図に名前も載っていない様な集落だった。
 その片隅にひっそりと佇む古い建物。
 帝国の裏表で活躍した、美しい銀の狼の所縁の地と聞いてもピンとこないほど、素朴で小さな場所である。

「私の部下が、世話になっていた様だな」

 ユーザ帝国の皇帝であるマクル・カル・セドニーはその場所で固まっている壮年の男性へ言葉を掛けた。
 ここは孤児を受け入れる施設であり、男は子供達の面倒を見ている者だ。

 国の統治者と面識などもちろんない男とマクルが対しているのは、側近であるツォーサの存在だった。
 彼女はマクルに出会う前からこの施設へ多額の寄付をしていたらしい。

「彼女が…」

 この国で最も貴いはずの言葉も、男にはさほど届かない。
 しかしその無礼を咎める者はここにはいない。

「皇帝陛下の、護衛を…。そうですか…」

 放心状態で呟くしか出来ないその男の気持ちはよく解る。
 彼の視線の先には、偉大なる賢帝ではなく、花に埋もれた1人の女性が居た。
 ツォーサ、と男が名を呼んでも、呼吸を止めてしまった彼女は応える事もない。

「何も知らされていなかったか」

 その沈黙に割り込むように、マクルは静かに訊ねた。
 ようやく皇帝の方を向いた男は、ゆっくりと頷いた。

「…ええ。何をしている人かも、寄付の理由も知りませんでした。
 ただ、幼い時からお養父上と供に顔を出されるくらいで。
 …そうですね…気にはなっておりました。
 道楽として援助して来るような金持ちにも見えなかったので…」

 何か、悪い事をして得ている金ではないか、と思った事もあった様だが、
 杞憂でしたねと男はほっとした顔を作ろうとしたのだろうが、失敗している。

 結果的には彼の予想は見事に的中していた。
 かつて「狼」と呼ばれた彼女は、その名と供に技術を受け継いでいた元暗殺者だ。
 先代から仕事を引き継ぎ、前皇帝ルディウに仕え随分「暗殺者として良い働き」をしたらしい。
 その後、ルディウが帝位を譲る際に乞い、表舞台に上がりマクルの護衛となったのだ。

「…命を落としたら、この街の墓地に埋めて欲しいと言われていた」

 しばらく棺の中の彼女を見つめていた男は、マクルの言葉を聞いてぽろりと涙を零した。
 一拍遅れて自らそれに気付き、誤魔化す様に部屋の外へと向かう。

「子供達にも、彼女に…お別れを言う様伝えてきます」

 ばたんと音を立てて扉が閉まった。

 再びの静寂に、ルリは佇んでいるマクルの姿を振り返る。
 室内には彼の他にはルリと側近のキラと棺の中のツォーサしかいない。
 扉が閉じた瞬間に、張り詰めた空気を出していたマクルは僅かに肩を落とした。
 先程までいた男と変わらないような、放心状態で棺を見つめている。

 彼が敬愛していた叔父の死は、予告されていた物だったが、
 美しい側近の死はあまりにも唐突だった。
 ルリもまた動揺の方が大きく、どう振舞って良いのかも解らず、
 ただ季節がら溶けて行く棺の中の氷を見かねて、
 物言わぬ狼を魔法で繊細に凍らせる事しか出来なかった。
 凍った細い銀髪が輝き、死してなお美しい彼女をより引きたてている。

 そう長い間は経たずに、マクルは長く息を吐いた。
 ぎこちなく、消え入るような声を絞り出す。

「少し、2人にしてもらえるか」





「自分のせいだと、責めてらっしゃる様だけど…」

 廊下に出てから、キラへと声を発した。
 病死や事故死でない事くらいしか解らないままここまでやって来たルリは、
 相当な戦闘能力を持ち合わせていたはずのツォーサが、
 こんなにも突然命を落とした事が腑に落ちなかった。

 佇むマクルから壮絶な悲しみはもちろん伝わる。
 しかしそれ以上に纏わりつく後悔の様なものが彼を覆っていた。

「んー…」

 ルリの疑問に反応して、キラは元からさほど纏まってない髪をがしがしと乱した。

「四六時中、あいつに張り付いてる事が仕事だからな。
 殉職っちゃ殉職だけど」

 供に何年も皇帝を支えた相棒。
 彼もまた悲しみよりも先に驚きに襲われているかもしれない。
 片割れを失ったキラは若干の戸惑いを含んだ声音だった。

「あいつがもうちょっと夫婦関係を上手く捌いてりゃ、こうはならなかったかもな」

 いや、手酷く捌いてりゃ、か、と微妙な笑みで呟いた。
 あいつとはマクルの事を指している。
 何となく、察する物はあった。
 想像通りだとすると、確かに後味が悪い。
 マクルの後悔は一入だ。
 それ以上踏み込んで聞く事はこれからもないだろう。

 何の慰めも思い浮かばないまま、扉越しに中の2人を見つめる。
 すると、あのさ、とキラが呟いた。

「ツォーサ、死んでもまだ、全然美人なんだよな」

 元々あまり感情の起伏を見せない氷の様な雰囲気の女性だった。
 なので余計に死しても変わらない気すらする。
 今でもまだ必要な時にはその唇を静かに開くのではないかと思うくらいだ。

「魔女サン、色々やってもらったあんたには悪いけど。
 あいつにとってはいっそ、
 腐って見るも無残になった方が、良かったんだよ」

 ルリでもなく部屋の中のマクルでもない場所を少し睨んでいるキラは、
 かつて虎と呼ばれる盗賊だったと言う。
 何処でどうやってこの場所に収まったのかは知らないが、
 マクルとは少し歳は離れた気さくな友達の様な間柄に見えた。
 同性故、気付く事も沢山あっただろう。

「ありゃ、引き摺るぞ」

 その言葉は、マクルが側近のツォーサを女性として愛していたとはっきり示していた。
 それは時折しか供に過ごしていないルリにさえ気付いていた事だったけど。

 彼の性格から言っても、愛人だった訳ではないだろう。
 ツォーサの方はどちらかと言うと、弟でも見る様な暖かい眼差しだったようにも思う。
 偉大なる皇帝のひっそりとした片想い。
 すると彼は最愛の女性と戴冠の前から支えてくれた側近、同時に失ったと言う事だ。

 それを思うと、胸が苦しくなる。
 彼女が負傷した瞬間に居合わせていたら、きっと助ける事が出来ただろう。
 今更ながらに、様々な巡り合わせを悔いる。

「なあ、魔女サン」

 思考に潜りそうになっていた所を呼び止められる。
 横を向くと、今度はキラが真っ直ぐこちらを向いていた。

「あいつの想いを続けさせた責任とって、
 ヘイカとの約束がなくても、これからマクルを助けてやってくれよ」

 ルディウが亡くなる前、確かにルリは「マクルを頼む」と告げられていた。
 特別その言葉を意識していた訳ではなかったが、
 ルディウに仕えていたルリは命じられたからマクルを時々訪れていると思われていたらしい。

 多少勘違いされている節はあったが、言い訳する意味もないと彼女は黙って頷いた。
 キラはそれを見届けると、満足そうな、でもいつもよりも寂しげな笑みを浮かべる。

「あいつは意外と寂しがり屋だからさ」

 いつもへらへらと笑って心の内を見せない男だった。
 2人だけで話して、本当に心からの言葉を聞いたのはこれが最初で――最後だった。





 その後10年も経たない内に、それは彼からの唯一遺言と呼べるものになった。






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