――聞こえるのは唯子守唄
眠りを誘う子守唄
混沌と子守唄
カオス ト ララバイ
「何故と訊かれても解らないわ…本当に何故かしら…」
彼女は空を仰ぎながらそう呟く。
「あなたこそ何故?何故そんな事に興味を持つの?」
相手は答えない。彼女は続ける。
「要するにあなたも単に感情に突き動かされる事があるという事」
『私に感情などというものはない。人格すらないのだから』
声は、彼女に素早く意見した。
『私にあるのは唯、本能のみ』
軽く溜息を吐いてから彼女は言う。
「そればかりね、あなたは」
彼女が見ている先に相手はいない。
「でもそれは思い込みよ。あなたが思っているほど、あなたは偉大な存在ではないと思う」
『なら何だと言うのだ?』
「泣きたい時に泣けない、笑いたい時に笑えない哀れな存在」
彼女は眼を閉じてみる――見えない相手が見えるような気がしたのだ。
『それは私を侮辱しているのか?』
案の定、声はそう言った。
「ほら、嫌な感じがしているでしょう。それをあなたの感情と言わずして何と言うの?」
声は再び黙り込んだ。
「前は如何だか知らないけれど、私という人間に入った以上、あなたも人間なのよ」
『人間…。私が…』
声は考え込んだようだった。
「そう、あなたが糧とするちっぽけな人間。心外?」
彼女は少し悪戯っぽいニュアンスで行ったみた。
『そんな事、今まで誰からも言われた事がない。
そう…全ての者は畏怖の対象として私の事を邪神と呼んでいた。私自身そう名乗ったことがある』
「自分の事を神と呼ぶの?」
何となく虐めてみたくなる。
「邪なる者の神?それとも邪な神かしら」
『……何故そんなくだらない質問をする』
「何故と訊かれても解らないわ」
彼女は少し笑いながら同じ台詞を言った。
『笑っていられるのも今のうちだ。もうすぐ私はお前を支配する』
確かに体は彼女の言う事を聞かなくなってきている。
「それは解ってる…。でもそうなればあなたは本当に人間になるのよ」
『人間になどならない!私は…私は…』
声を荒げて邪神は言った。
「泣きたい時に泣けない、笑いたい時に笑えない哀れな存在」
『やめろ!今すぐお前の意識を消し飛ばす事ぐらい出来るんだ!』
取り乱したように言う。
「消せば良いわ。殺せば良いじゃない」
彼女はあくまで落ち着いている。
『何故だ。何故そう言える。何故私にそう話す!』
「あなたが私によく似ているから。泣きたい時に泣けない哀れな私に…」
邪神にはよく意味が解らなかった。
「でも最後に素敵な人に出会えたから、あなたより私のほうが幸せよ」
『なら、生きて会いたいだろう。消え去るよりも幸せだろう』
「今会えば、死ぬより辛い事になるわ。きっと…」
彼女は初めて悲しみを込めた声を出した。
『私と語る理由は何だ?』
もう1度訊いてみる。
「あんまりよく似ているから、何とか出来ないかなって…」
『何とか?』
彼女は視線を遠くにやった。
「私があなたを好きになれば――あなたが誰かに愛されれば――あなたも少しは幸せになれるんじゃないかと思って」
『私は愛など求めない。私の幸せとはこの世を混沌に帰す事』
彼女は聞かない。
「あなたの為に何かをしてくれる人、いれば良いと思わない?」
邪神はもう答えない。
「詩があるの。小さい頃、愛されては育たなかったけど、唯一この詩を聞かせてもらった時は幸せだった。
あなたの為に唄ってあげようか?」
答えない。
「…もういいわ。じゃあ私はあなた以外の為に唄う」
再び目を閉じる。
息を吸う。
――それは優しい子守唄。
彼女は唄う。
彼女の意識が混濁たる闇に飲み込まれるまで。
邪神と呼ばれる存在が自分の為だけにその詩が唄われなかった事を後悔するまで。
彼女は唄い続ける。
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