――追いつ追われつ遁走曲。
目的のものは、遥か遠い。
空回りの遁走曲
カラマワリノ フーガ
ユーザ帝国より遥か西。
2つの国と1つの海峡を変えた先アルフガナ王国。
アルフガナ王国立リヴァーサルド学園。その授業中の風景。
窓際でぼーっと黒板を眺めているのは学年一の秀才と名高いシャレオ=レマージュだ。
単調に続く白墨の音。
彼女は魔力構成理論の授業が退屈で嫌いだった。
魔法に関しては実践に勝るものはない。
すでに魔法を操る技術を持っている彼女には座学は空論に過ぎない。
彼女が好きなのは歴史だ。
膨大な過去は追っても追っても飽きる事はないから、という理由は彼女の憧れの人の持論をそのまま拝借している。
今もつまらない講釈を右から左へ聞き流し、読み止しの歴史書の事を思っていた。
歴史好きな事は彼女の唯一の家族である兄にも伝えてない。
そんな事を伝えたら最後、部屋を埋め尽くすほどの歴史書が送られてくる。
その予想は部屋の一角を占めている詩集の量を見れば見当違いとは誰も言わないだろう。
小鳥がさえずり、天気はとても良く穏やかな陽気。
あの本を持って校舎裏の庭で過ごしたい、教室の音を締め出し夢想する。
鳴り止まぬ小鳥のさえずりに何気なく彼女は外を見た。
そして、
「ウェ…っ!?」
思わず叫びそうになり慌てて口をふさいだ。
講師と生徒が行っていた古い理論を巡っての議論の為教室が騒がしくなり始めていたので、
どうやら彼女の動揺に誰も気づいていないようだ。
級友達はいつも落ち着いていて人形の様と評される彼女の珍しい表情を見逃した事になる。
彼女は幻覚かもしれないと思い、呼吸を整えてもう1度外を見た。
やはりそこには予想できるはずもない人が呑気に煙草を吹かしている。
兄の親友、ウェルスト=トゥアトスが。
授業終了の鐘が鳴り響くやいなや、彼女は席を立ち上がった。
さすがに数人の同窓生が驚きの表情でそれを見送る。
階段を駆け降りるのもやきもきして、折り返しの地点から誰も居ないのを確認して、中2階の踊り場の窓から外へ飛び降りた。
幻想でも妄想でもなかったくすんだ赤毛の青年が先刻からの変わらぬ場所に確かに存在している。
「ウェルストさん!」
魔法の呪文以外で声を張り上げている彼女を見れば学園中の誰もが注目しただろうが、
それを聞いていたのは学園とは縁もゆかりもない人間だった。
「よう、シャレオちゃん」
彼は気軽に手を上げて応えた。
「1年ぶりかな。こっちの生活はどう?」
「あ、はい。おかげさまで…それにしても、驚きました。
もっと遅くなると思っていたので…」
さすがにはしゃぐと子供っぽいかと思い、いつものように静かな声音に抑えようと努める。
それでも驚き以上に気持ちが高ぶっているのを隠せない。
事前の手紙でこの国に来る事は知っていた。
けれども届いた手紙に記されていた出発の日付から考えるともっと遅いはずだった。
「まあ、俺も初めて使う経路だったんで、到着を事前に伝えられなかったのは悪かったよ。
ユーザからの直行船便じゃなくて、ビクスまで馬で来たんだ。
さすが整備された陸路は違うな。最後はシヴィア海峡を渡ってきた」
帰りは試運転中の鉄道を利用しようかと思う、などと続けていたが、半分くらいしか彼女の耳には届いていない。
先程あれだけ想っていた歴史書などよぎらないほど目の前の彼を見つめていた。
ウェルストは彼女の過保護な兄の学生時代からの友人だ。
両親が揃って亡くなり途方に暮れていた時、空回りする兄の代わりに彼女を立ち直らせてくれたのがウェルストだった。
以来何かと気にかけてくれており、兄と供に顔を見せに来てくれ、
彼女が後見人である伯父の仕事に付き合ってアルフガナへ移住した今でも、時折手紙や記念日の贈り物を送ってくれていた。
実際に姿を見たのは先述通り1年ほど前。
思い出の中では毎日会っているが。
「そういえばウェルストさん、その格好は…?」
彼が身に纏っているのはユーザ帝国の国教でもあるアストライヤ教の神官衣装。
黒いかっちりとした上着に教団の紋様が入った白い外套、左眼は片眼鏡だ。
彼女の知る限り、彼は普段もっと動き易い衣服を好んで着ているはずだった。
眼鏡もかけてなければ髪も纏まっていない。
今の格好は、それはそれで決まってはいるが少し別人の様だ。
「あー…視察って名目で入り込んでるから。
あと左目はちょっとヘマして悪くなったんだ。この格好以外では付けないけど」
そう言って少し苦い顔をして片眼鏡を押さえた。
彼が身分証代わりに使っている上級神官の証の効力は他国にまで及ぶ。
少なくとも自国民でなくても怪しい物には見えない。
アストライヤ教もまた学園を営んでいる為、特に疑問もなく受け入れられるだろう。
「でも学園関係者以外の視察って普通、ここの職員の付き添いが要りませんでしたっけ?」
「優しい職員さんは1人で見て回りたいって俺の希望を聞いてくれたんでね」
一片のやましさもありませんと言うようににこりと笑う。
「……対応したの、女性事務員ですね」
意図せずとも不機嫌そうな声が出る。
ご明察、と気楽に彼は答えた。
目の前の男は文句も付けようがないくらいモテる。
彼女の兄は中性的な雰囲気を持つ美しい男だが、彼にあるのはもっと男性的な魅力だった。
凛々しい切れ長の瞳、しなやかかつ逞しい体格。
気さくな笑みを浮かべながら名を呼ばれれば、多くの女性が夢中になってしまう事を、彼女は身を持って知っている。
「せいぜい男性職員に見つからないように気を付けて下さい」
「見つかってもシャレオちゃんが助けてくれるだろ?」
笑って冗談交じりに頼られると、機嫌もたちどころに治ってしまう。
普段は人形の様だと言われる彼女の頬は赤く染まった。
「それで本題なんなんだけどさ…」
と、話しだそうとした彼の言葉をまったく別の声が遮った。
「シャ、シャレオさん!?」
まったく周りを見てなかったので単純に驚いて彼女は辺りを見渡した。
校舎の窓に2つの影。
1人は学園長の孫、レアト=ロート。
浅黒い肌に黒髪、慇懃な物腰。
いつも紳士を気取った態度だが、今はちょっとした絶望に遭遇したような悲壮感が漂っている。
先程の声は彼の物だ。
「いやー…お前も女だったんだなー」
その隣でそう呟いているのは学園一の秀才の弟、ゼア=ラティカル。
銀色の髪から覗く緑の瞳はいつも少し不機嫌そうだ。
しかし今は心底驚いているというか、何かに納得しているかのようだ。
「友達?」
言おうとした言葉をすっかり仕舞い込んだウェルストはと言えば、とりあえずといった質問を口にした。
はい、と告げる暇もなく、レアトの上ずった声が届いて来る。
「そ、そのおと…男性はどなたなんですか?
そこのあなた!部外者は学園には立ち入り禁止のはずです!」
しごくもっともな尋問だが、そこまで感情的になる程の事ではない。
「モテる女は大変だな」
質問を投げかけられているウェルストは、他人事の様に笑ってからシャレオにだけ届く声音で呟くと、
アストライヤ教の紋章が描かれている外套を解りやすく掲げながら答える。
「教会から視察にね。一応許可は通してるよ」
ええっと、とシャレオが間に入る。
まだこの国に来た彼の目的を詳しく訊いていない以上、知り合いだと言う事は伏せた方がいいだろうか。
「ユーザ帝国からお越しのアストライヤ教上級神官のウェルストさん。
今おっしゃったように視察でいらしているんですって…」
「学園の視察は職員の付き添いが必要なはずですけど…?」
案の定彼女と同じ疑問が飛び出す。
「ちょっとはぐれちゃったんで、道を訊いてたんだ」
さすがに女性職員だったから上手く丸めこんでうろついています、とは言わない。
まったく動揺もなく淀みない回答だったが、レアトは憮然とした表情のままだ。
「なんか怪しいですね…」
「はぁ?ロート、お前何言ってんだ?」
横でしばらく成り行きをみていたゼアがたまらず口を出す。
しかし耳に届いてないのか、レアトは続けた。
「アストライヤの上級神官って、確かユーザでは相当な地位だったはず。
そんなお若いのに上級神官なんてなれるものなんですか?」
「特に年齢なんて関係ないさ。
学園を卒業してたら結構有利だから、卒業と同時に取得する奴だっているよ。
試験は基本的に筆記試験、それに一芸なんかあると優遇されるか。それこそ魔法とか。
俺はある程度体術が使えたから、簡単に通った方かもな」
ウェルストは不信感を滲ませる相手にも嫌な顔一つせず答える。
だがその余裕の態度が気に入らないのかレアトは納得しない。
「くっ、言葉だけなら何とでも言える…!」
「何突っかかってんだよ…?シャレオも、そろそろ休み時間終わるぞ」
ゼアの言葉で、彼女はしまった、と内心焦る。
次の時間は移動もあるし着替えもあるのだった。
何とか2人を追い払って、放課後の約束を取り付けなければならない。
ウェルストと学園内を歩ける機会など、この先ある見込みはほとんどないのだ。
「えっと、レアト…」
どうにか口を挟もうとしたが、すでに彼らの意識は彼女以外に向いている。
「シャレオさんをかどわかそうとしてる不埒な偽物だったらどうする!?」
「お前頭可笑しいんじゃねぇか?」
「かどわかす…か。不埒なんて言葉久々に聞いたな…」
2人のやりとりを見ていたウェルストはその言葉がツボに嵌ったのか、笑いを必死に噛み殺している。
「気になるならここの都にある教会支店に問い合わせてもらっても良いよ。
俺の名前、登録されてるはずだから」
「いえ、そこまで怪しんではいません。ただ…」
間に入っているシャレオは、何だか嫌な流れを予感した。
数分前までの浮かれていた気分に戻りたい。
「そのある程度使える体術って言うの、試させてもらって良いですか?」
「お前、ただの嫉妬じゃねぇか…」
隣にいるゼアはただただ呆れている。
しかし的確な指摘などでレアトは止まらない。
「幸い次の授業は基礎体術訓練だ!
教師には話を付けますので、ちょっと体術の指導して頂けませんか…?」
「…レアト、やめた方がいいわ」
もう予感所ではない。
「心配しないでくださいシャレオさん。
お客様である方に大きな怪我をさせるつもりはありません」
レアトは今更ながらとって付けたような紳士然とした仕草を決める。
「いえ、その…」
小さい怪我はさせるつもりなのだろうか。
やめた方が良い理由を告げたい所だったが、先程知り合いではない振りをしたばかりだった。
それ以上何も言えずに、ウェルストの方を見やる。
「俺もこっちへの滞在時間限られてんだけどなー」
そう不満を口にしつつも、どうにも楽しんでいるようにしか見えなかった。
完全に嫌な流れだった。
嫌な流れすなわち――彼女が置いてきぼりにされている。
「まず僕が行くからゼアは後で…いや待てよ。後から倒した方が格好いいか…」
「俺が倒しちゃって、向こうのやる気がなくなったらもうお前戦えないけど。
ていうか、なんで俺まで戦う事になってんの?
お前の見栄の問題に何で俺まで巻き込まれてんの?」
「はっ、そうか!じゃあ僕が先に行った方が良いのか」
基礎体術訓練は校庭で行われる。
授業の鐘と同時に、目の前の光景に思わずシャレオは溜息を吐いた。
優等生制度の仲間である友人2人が、憧れの男性と対峙している。
そしてそれを物珍しそうに学級中の生徒が観戦者として囲んでいた。
「ロートくん、ラティカルくん、その…穏便にね」
基礎体術の講師はびっくりするくらいおろおろいていた。
学園長の孫が、どうやらそこそこ地位のあるらしい他国からの使者と模擬戦闘をすると言いだしたのだからしかたないと言えばしかたない。
熟練講師だったら例えどんな肩書の生徒でも一蹴したかもしれないが、残念ながらこの講師はまだ若い新任だった。
「あー、例え怪我しても教会は特に何も言ってこないですのでご安心を」
ウェルストは半泣きの講師に、気楽そうに告げる。
彼は確かにアストライヤ教の上級神官資格を持っている。
だが教会に就業している職員と言う訳でもない。
一応教会の支店へ視察を行う届け出はしているが、
あくまで上級神官の資格を持っている者が私用の研究の為、という事になっている。
「…面倒だからさ、いっぺんに来たらいいよ。1対2で構わないから」
まだ何やら悩んでいるらしいレアトと、巻き込まれているゼアに向けてウェルストが告げる。
その一言でやる気などさらさらなかったゼアにも火が付いた。
「さすがに舐められると気に食わん」
あからさまに不機嫌な顔で、悪友ではなくウェルストに向き直る。
当のウェルストは、さすがにこれからの激しい動きに向けて片眼鏡と外套を外していた。
それを持っていてくれるように頼まれた女子生徒が浮足立っているのが離れていても解る。
まったくの部外者のはずの彼だが、すでに何人かが応援者候補に回っているようだ。
少し身軽な装備になって、眼鏡を外した彼はシャレオの馴染みの姿に近い。
軽く身体をほぐす動きをしながら、彼らしい不敵な笑みを浮かべた。
「手加減の程度は任せるよ。負けた時の良い訳用に」
絵に描いたような安い挑発に友人はあっさりと乗っかった。
「ぜってー倒す」
「シャレオさんは渡さない!」
ざっ、と音を立ててレアトとゼアがそれぞれ構える。
仲が悪いのに妙に息のあったこの2人が組めば、体術専門の講師であっても分が悪いはずだ。
対するウェルストは、特別な構えもなく2人の様子を眺めている。
特に合図があった訳でもないが、悪友同士はほぼ同時に地を蹴った。
ウェルストに向かって一直線、だがぎりぎりの所でゼアが一気に彼の死角へ跳ぶ。
その一瞬でそのまま突っ込んだレアトとの時間差を作り出した。
当然真正面から飛び込んでくるレアトをウェルストは簡単に避ける。
それは計算の内だったのだろう。
自分が相手の視野に入ってない事を確認し、避けて体勢が不安定だろう所にゼアが思い切り蹴りを放つ。
とてもじゃないが、怪我をさせないような威力じゃない気がしたが、
ウェルストは視界外から飛んできた蹴りを読み切っていた様に左手で払った。
ゼアは予想外の反撃にあい、驚きつつも着地後追撃しようとしていたようだが、
まだ空中に居る段階で一瞬にして反転したウェルストが右手で掌底を喰らわした。
観客からすれば軽く肩を押しただけに見えたが、地面に足が付いていない為抗える訳もなく、
簡単にゼアは後ろへと吹っ飛ばされた。
おお、と生徒達がどよめいているが、ウェルストは動きを止めなかった。
悪友の攻撃が当たる事を前提に反対側から攻撃する予定だったレアトがほんの一瞬逡巡しているのを見逃さず、腕をとって背負い投げる。
完全に不意を突かれて、そのままレアトは地面に叩きつけられた。
投げ終わったウェルストはゼアに背中を向ける事になる。
受け身を取っていた彼は、それを好機と判断してすぐに起き上がり再度地を蹴る。
後ろから押さえつけようと勢いよく突撃したが、対象者はレアトを投げた反動のまま、華麗に前転した。
あまりにも淀みない流れについていけず、ゼアは勢いのまま、仰向けのレアトの上に倒れてしまう。
ぐえっと短い悲鳴が上がった。
「いや、さすがに良い反応するな。受けた腕が痺れた」
膝すら地面に付けなかったウェルストは服に払う汚れさえついていない。
一応唯一身体に衝撃を受けただろう左手をぶらぶらと揺らしている。
もはや余裕しか感じられない。
思わずと言ったように、シャレオを含めた観戦者達からは感嘆の声が上がる。
やはりここの講師などとは比べ物にならないほど強い。
そして、すっかり魅せられていて、地に伏した同窓生の事をまるで意識していなかった。
それは彼女に限った事ではなく、その場に居たほぼ全員がそうだったようで。
なのでゼアが強く止める声で、初めて気付いた。
「馬鹿、やめろって…!」
「地獄の業火よ、我手に宿れ…」
そばにいたゼアにしか届かないほどの囁きで紡がれていたのは確かに魔法だった。
いくら魔法の使い手を養成する学校とは言え、人を殺傷出来る能力を野放しにしている訳ではない。
特殊な事情がない限り禁止されている対人への魔法の使用をするとは余程悔しかったのか。
自尊心の強いレアトはどうしても一矢報いなければ気が済まなかったのだろう。
「ウェルストさん危ない…!」
さすがに接近戦を終えたばかりの距離で、炎なんて当たったら軽い怪我では済まない。
しかし、シャレオの警告が終える前に、呪文は完成した。
「ヘル・ファイア!」
いやああ…――と悲鳴を上げたのは当事者でも観客だった生徒でもなく、哀れな講師だった。
禁止されている魔法が、よりにも寄って客人に放たれたのだ。
普通なら始末書なんかで済む話ではないはずだ。
「ウェルストさん!」
さすがに直撃させるつもりはなかったらしいが、校庭へと突き刺さった炎は熱風で派手に砂埃を撒き散らしていた。
その為に彼の姿がみえず、彼女は思わず駆け出す。
「お前何て事…」
「魔法使わないなんて約束してなかっただろ!威力は絞ったからだいじょ…」
ゼアに向けたレアトの台詞は最後まで続かなかった。
たん、と地を踏む音は、着地の音だったのか。
砂埃が治まった瞬間には、ウェルストが片足と片手でレアトとゼアをそれぞれ押さえつけていた。
「…え?」
その呟きは誰の者だろうか。それとも、全員の者だったのか。
足元へ放ったとは言え、十分に炎の範囲に入っていたはずだった。
しかし何事もなかったように学友を踏みつけている。
「いや、避けただけ」
あまりにも皆がぽかんとしていたからだろう。
誰にも訊かれてないが、ウェルストはその空気に応えた。
「魔法って言っても黒魔法って飛び道具みたいなもんだろ?
魔法の術者は大抵、目標物か、その軌道を眼で追ってる。
ってことはその目線から外れれば少なくとも狙いには当たらない」
誰も賛同も反論もして来ない為、彼は続ける。
「呪文…しかも詠唱何て唱えてるんじゃ、避けて下さいって言ってるようなもんだ」
当たり前の事の様に振舞われたが、常人ならそうはいかない。
発動から目標地点への到達時間なんてほんの一瞬だ。
視認できる速さで飛ばす系統の魔法なら距離さえあれば目視で避けられるだろうが、彼とレアトの距離は数歩分と言った所だ。
理屈が解っていても避けきれる物ではない。
ましてや魔法は動作も武器も必要ない飛び道具なのだ。
呪文だって、別に相手に届くように発声する必要などない。
事前の動作が言葉しかない状況でそれを察知するのは、同じ魔法使いでも難しい。
――戦い方を身に着けて、少しは近付いたつもりだったけど。
肩を並べたくて、こんな学校にまで入学したのだが。
――こんなにも遠い。簡単には追い付けそうにない。
進む度に距離の遠さを思い知る。
「で、どうする?まだやるなら付き合うけど」
軽く押さえているように見えるが、しっかり腕を決められているらしい。
レアトとゼアは顔を見合わせると、渋々と言ったように呟いた。
「……参りました」
その言葉を耳にして生徒たちから最後の歓声が上がった。
因みに講師は、悲鳴の後に意識を手放してひっくり返り、付近の生徒に介抱されている。
そして、取り残された生徒が1人。
「嫌な予感的中…」
すっかり生徒達に取り囲まれて質問攻めな彼に、もはや近付く術が見当たらなかった。
「そしてこちらがお望みの図書施設です」
何度もシャレオが、彼に校内を案内すると言い出そうとしていたようだが、初対面の振りをしたのもあって口実が作れなかったようだ。
騒がしい事を好まない彼女を騒動に巻き込んでしまった詫びを考えて置かねばならないだろう。
何故か今ウェルストに学園内を案内しているのは、こっぴどくやられたレアトだった。
案内しますと言いだした生徒は他にもたくさんいたが、レアトの勢いには敵わなかったようで。
さっきまでの敵対心が嘘のように、というよりも、
その敵対心が「自分と対等以上の人間に巡り合えた」という良く解らない感動に置き換えられたらしい。
ただ、その為にシャレオが静かに睨んでいた事を知らない方が、青春真っ盛りの生徒の為かも知れない。
帝国を活動の生業としているウェルストがアルフガナ王国まで足を運んだのはもちろん、
ここ最近の関心事「邪神」に関する情報の収集の為。
邪神に関する情報はほとんど帝国に存在しない。
自分の身を危険に晒す事になった遺跡の奥。
その儀式の様式や彼を助けた魔女の話を聞くに、邪神はどうやら呪術的な要素と深く結び付いているようだった。
呪術と言えば魔法だ。
魔法に関連した存在なのだとしたら、魔法が廃れている帝国よりも、
魔法王国であるアルフガナの方が何かしら情報があるのかも知れないと考えたのだ。
そして帝国内で起きている様な不審な魔物の出現が他国にも広がっているのかと言う調査も兼ねていた。
案の定この地に踏み入れるやいなや、最近現れた新種の魔物の話題で持ち切りだった。
国からの討伐隊に死者も出したと言うその魔物の詳細は、国の研究の為にまだ非公開だったものの、
たまたまその討伐にリヴァーサルド学園の生徒が参加していたというのはすぐに耳に入った。
その学園と言えば、今回の入国に関しても事前に伝えている、彼の親友の妹が在籍している。
運が良ければその魔物の事でも詳しく聞けるかもしれない。
駄目でも元々、親友の妹の顔でも見ようと言う気軽な気持ちで、始めは学園へ来る予定は完全についでだった。
しかし、第一目的の情報収集の一環で訪れた国営図書館。
魔法はこの国の根底を支えている重要な文化であり能力であるらしく、
立ち寄った国営図書館では他国民への資料の閲覧許可を取るのが非常に厳しかった。
その為目を付けたのがついでのつもりだった学園の図書館だ。
魔法を専門に扱っていると言うだけあって、様々な観点からの魔法資料が収められている。
ここの職員なら国営図書館と同じ理由で閲覧を禁止したかもしれないが、レアトに頼むと快く内部案内してくれた。
受付に居たのも学園の生徒らしく、特に咎められる事もない。
始めの職員の付き添いを断った甲斐があった。
短い時間だが、少しくらいは文献を漁れるだろう。
「この辺りが魔法に関する文献です。
実技実践系、歴史、魔法陣などを芸術して扱った書籍なんかもありますね」
今までウェルストが興味を持った事のない背表紙が所狭しとならんでいる。
もちろん限られた時間で全てに目を通す事など不可能だ。
この国でしかお目にかかれないものを選別して把握して、後は別経路で手に入れよう、と割り切るしかない。
「では、僕は少し席を外します。また閉門時間を伝えに来ますね」
この生徒は街中で話題の新種の魔物と応戦したと言う事で、そこそこ話がはずみ、すっかり不審者扱いするのを止めてくれたようだった。
1人でしばらく閲覧したいという意を汲んで、レアトはそこから立ち去ろうとする。
ふと思い立って、ウェルストは案内人を呼び止めた。
「邪神って聞いた事あるか?」
レアトは予想通り首をひねったが、その解答は想定外だった。
「……なんですか?最近それ、帝国では流行ってるんです?」
「は?いや、そう言う訳じゃないけど、なんで?」
「帝国からの前回のお客さんも、同じ質問をされました」
邪神、帝国と来れば、思い当たる節がある。
「…それ、俺くらいの歳の、茶色い長い髪の女?」
彼の知る、「思い当たる節」の特徴を口にしたものの、レアトは首を横に振った。
「いえ?その質問をしたのは眼鏡の小柄な黒髪の女性です。
歳は僕より1つ上くらいですかね。ああ、そう、聖アストライヤ学園の生徒ですよ」
「アストライヤ学園の生徒?」
「こないだって言っても、もう半年は前ですかね。丁度僕の入学の直前だったんで。
他にも数名いましたが、長期休暇を利用しての海外旅行だったらしいです。
魔法を学ばれてると言う事で、この学園にも見学に来たそうでした」
「魔法…第一学園か…」
魔法科が設けられているのは首都に校舎を構える第一学園ののみだ。
一神教であるアストライヤ教に、邪神という概念は存在しない。
熱心な信者だけが集まる場所ではないにしても、研究や講義の題材に使われる事などないはずだ。
「あの、ウェルストさん?」
一瞬考えるような仕草をした彼にレアトは首を傾げる。
「ああ、いや、悪い。さっきの質問は心当たりがないなら忘れてくれ」
我に返り、案内人に詫びる。
不思議そうな顔をさせたが、あ、と声を上げて、レアトは続けた。
「そういえばあなたがおっしゃってる方かどうか解りませんが、
茶色い長い髪の女性なら昔から時々祖父の元に来られますよ」
祖父というのは恐らくここの学園長の事だろう。
「名前、解るか?」
「そう言えば名前は知らないですね。呼んでるのも聞いた事ないかも。
なんか、初めて見かけた時から雰囲気が変わらない気がする人なんですが…。
あ、確か祖父は……“魔女”って呼んでました」
思わず天を仰ぐ。
「ウェルストさん、どうかしました?」
「いや、簡単には追い付けそうにないなって思っただけ」
進む度に距離の遠さを思い知る。
――まぁ、追うのを止めるつもりはないけれど。
「あれ、シャレオちゃん」
閉門時間を迎え、部外者の彼は学園の外へと出て来る。
門をくぐった瞬間に煙草を取り出し、火をつけようとしていたが、その手が止まった。
路地からすっと出てきた彼女を見て、彼は単純に驚いたような表情を見せる。
「閉門後の外出は禁止されてるんじゃなかった?」
「見つからないように戻ればいいんです」
普段は目的がないのでやらないが、越えられる柵の位置や、警備の巡回時間くらいは把握している。
「せっかく案内する場所色々考えてたのに…」
生涯に1度しかないだろう機会を逃してしまった。
子供っぽく、不満を口にする。
「ホント悪かったよ。校内に入ったらあんな展開になるとは思いもしなかった。
明日は休日?外出できるなら昼飯でも奢るよ。街とか案内してくれると助かるな」
詫びのつもりのご機嫌取りと解っていても、悪い気はしない。
明日は先約があった気もしたが、そんな事は彼女の頭から吹っ飛んでいる。
「もちろん案内します。…この国は、もうすぐに発たれるんですか?」
「少し見て回るけど、もう数日後には発つよ。
居ない間に、帝国で新しい展開があっても嫌だしな」
独り言のように呟かれた後半の意味は解らなかったが、彼女が問う前に彼は次の台詞を口にする。
「今度帝国に来る時にはシャレオちゃん好みの遺跡でも探しとくからさ」
因みに犯罪だからレマージュには内緒な、とわざとらしく人差し指を唇にあてる仕草。
我ながら単純だなと思いつつ、そんな事だけでもいちいち嬉しくなってしまう。
「それも含めて、ユーザに戻った時には会ってくれます?」
「早めに大体の日取りを教えてくれたら空けとくよ。
いつもの住所に送っておいてくれたらいいからさ」
長期と名がつくとは言え、帝国との距離を考えるとほとんどが旅路になる為休みを有効に使えない。
もともとは帝国に行く予定など考えてなかったが、こうなると話は別だった。
かなり先の話だが、切符を取り、彼女の兄には数日日付をずらして伝えよう。
綻ぶ笑みを押さえる事は出来ず、まだ来ぬ休暇の予定を夢想する。
しかし、はた、と思考が止まる。
学園は閉門時間とはいえ、まだ夜は始まったばかりだ。
学生が夜遊び何て、等と言いだす様な男ではない。
今夜の食事は誘われなかった事が気にかかる。
「今日の夕食はどうされるんです?」
「あー、そろそろ時間だな。夕食は受付で対応してくれた事務員さんと約束してる」
それを条件に監視の目を逃れたと言う事だ。
「因みにその後は…?」
「同じ宿に泊ってる旅行客に飲みに誘われてるよ」
どの方向に考えてもそれも女だろう。
照れる訳でも自慢げでもなくあまりにも自然に答える所が憎らしい。
――こちらは「親友の妹」から抜けられないと言うのに。
「…ウェルストさんは、一度こっぴどく振られればいいのです」
八つ当たり気味にじと目で言い放つ。
どうにも彼女がそんな言葉口にすると、呪いの人形の様だ。
どうせ笑って誤魔化されると思っていたが、ぴたりと止まり、深いため息を吐きながらあからさまに肩を落とす。
その反応に少しばかり驚いていると、
「最近、振られたばっかりだよ」
初めて見る自信のない表情を浮かべた彼は、咥えようとしていた煙草を力なく折った。
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