――途方もない狂想曲。
     どこを振り返っても見つからないままで。



刻まれない狂想曲
   キザマレナイ ラプソディ



 そこは今や帝国のありとあらゆる書物が集められた情報のるつぼ。
 帝国立魔導研究所の資料館。

 その閲覧室の端に、積み上げられた書物に埋もれるように青年がいた。
 上級神官の印を身に着け、神官の正装をしている。
 くすんだ赤毛、切れ長の濃灰色の瞳。整ったその容姿を、施設に勤める司書官の女性が時折盗み見ていた。
 彼はずり落ちそうになる片眼鏡を直しながら、熱心に調べ物をしていた。
 入館してから早数時間、まだ席を立つ素振りは見せない。
 情報の保護の為、記録の類を禁止されている館内では、ただ頁を捲る音だけが静かに響いていた。

 どこまでも続きそうな静寂だったが、突然、場にそぐわない声が彼の思考に割って入った。

「煙草、吸ってないのね」

 あまりにも近くから聞こえた声に、思わず隠し持つ短刀に手をやりながら振り返る。
 そこに居たのは、茶色い髪をさらりと流した、20歳前後の容姿を持つ女性だった。

「喫煙愛好家だと思ったのだけど」

 そう続ける女性を視界に入れ、青年――ウェルスト・トゥアトスは珍しく大いに狼狽した。
 知らぬ人物だったからではない。捜していたが会う事が叶わなかった人物だからだ。
 時間にすれば数秒にも満たなかったのだろうが、口を開くまでの時間が妙に長く感じた。

「…煙草?」

 間抜けな返しだとは思ったが、それくらいしか口から発せられなかった。

「死の間際でも、吸ってたじゃない」
「火気厳禁の場所で吸うほどじゃない」

 何とか動揺しているのを悟られまいと、今度はさらりと言い返す。
 一度言葉を発すると思いのほか落ち着いてきて、冷静に状況を確認する。
 ここは帝国でも機密事項の点から一般人には公開されていない場所。
 正直、忍び込む事は出来ない訳ではないが、長居をするつもりなのならやり難い。
 自らも神官らしい格好をして、神官の印を開示してやっと入って来たのだ。
 目の前の彼女は、どう見ても神官の衣装ではない。
 帝国に属している兵士や学者の衣装でもない。
 街中で見かけても怪しみはしないが、この場所では不審者だ。

「どっから入って来たんだ?簡単に入れるとこじゃないはずだけど」
「正面からよ?物騒な事は好きじゃないわ」

 やましい事は何もないと言うように首を横に振った。
 けれどもそんなはずはない。
 私語が禁止されているはずの館内で声も潜めず会話をして注意もされないなんて事はありえない。
 自分に時折視線を送っていた司書官に目をやると、同じ場所に座ってはいたものの、
こちらに人が存在すること自体気付いていないように遠くを見ていた。
 どういうからくりなのか解らないが、何かをして入って来たのは確かだ。

「私の事、探してたんでしょ?
 ギルドに本職の情報屋、あらゆる所で聞き込んでたみたいじゃない?」
「恩人の事を知りたいと思うのは当り前さ」

 ウェルストは何も驚く事などなかったですと言うようににこりと笑った。
 彼女も同じように笑みを浮かべて問い掛ける。

「それで?何か解った?」
「解る所か、聞けば聞くほど解らなくなる。もう理解する事は放棄した」
「そう。噂って尾鰭も背鰭も付くもんね」

 目の前の女――“ファントムの魔女”の噂はあまりにも奥深い。
 数え切れないほどの逸話を聞いたが、簡単にまとめると“人間離れしてあり得ない者”となる。
 尾鰭背鰭程度で足りるものなのだろうか。

「…あんた、本物なのか?」
「何の本物?私は、誰の偽物でもないつもりよ」

 机上の空論の様な女は明らかに解っているのにはぐらかす様な答えしかくれない。
 まるで主導権を握れない。

「…じゃあ、名前は?」
「人の名を尋ねる時は、自分から名乗るものよ“不規則な鼓動”クン」

 自らもその業界では有名人である。
 あれほど手広く聞き込めば、相手にも自分の情報は伝わるだろう。
 恐らく尋ねてみただけで、本当は名前も知っているに違いない。
 こちらは何も解らなかったと言うのに。

「ウェルストだ」
「ルリよ。以後お見知りおきを」

 ルリと名乗った彼女は、上着の裾を摘まみ、演技のように会釈をする。

「…どうも」

 ウェルストはもう余裕の振りをするのも馬鹿馬鹿しくなって、適当な返事を返すに留めた。
 愛想のない返事も気にせず、彼女は彼の前に積み上げられた書籍の背表紙を検分する。
 ほとんどが歴史書や宗教の専門書だ。

「それで、ウェルストくんは、一体何を調べているの?」
「あんたが、邪神だなんて妄言を吐いてくれたせいで、心配性になってね。
 あの話が本当かどうか調べてたんだよ」
「それで?調査は捗ってるの?」

 彼女は適当な一冊を手にしながら彼の隣の席に座った。

「……捗るも何も、邪神についての記載なんてほとんどないし」

 恐らくそんな事もお見通しなのだろう。

「所謂、邪教徒の崇める物。邪の根源って書き方くらい。
 邪教徒自らの著作ですら、世界を終焉に導く「何か」としての記載しかないって何なんだよ…」

 正直数時間の収穫がこの程度しかない事に苛立つ。

「調べ物は得意そうよね。核心が掴めなくて悔しいんでしょ」

 図星を指されて言い訳のしようもなく、少し睨む。
 指摘通り、彼はただ悔しいだけだった。
 歴史をこよなく愛する彼は、ありとあらゆる歴史書と向かい合って来た。
 公の記録に残るようなものはほとんど知っている。
 だからこそ物足りなく、違法だが仕事としては面倒な未発掘遺跡の調査も進んで引き受ける。
 未知のものに遭遇する。知らない事を知る。知的好奇心を満たす事が、彼の娯楽の1つだった。
 魔女と呼ばれる女性――ルリの口にした「邪神」という言葉は、
そんな彼の好奇心を刺激し、そしてまだ、知る所まで連れて行っていない。

「歴史書に目を付けたのは間違えじゃないわ。
 ただ、“邪神”という単語を探すのはお勧めしないわね。無駄だし」

 じゃあ、と口を挟もうとした所で、彼女の話は続く。

「何か知りたいなら、そうね。
 戦争や人的被害の大きい事件を調べると良いかも。
 あ、そうだ、あれがないわ、大陸神話。
 狂った話であればあるほど参考になると思うけど」

 具体的な彼女の助言に、しかし何か引っかかるものを感じる。

「狂った戦争や事件?大陸神話??
 …“邪神が蘇った”ってのは今回が初めてな訳じゃないのか?」
「初めてじゃないと何か可笑しい?」
「それこそ歴史に刻まれていない訳がない。
 て言うか、何人も邪神がいるって事なのか?
 世界を終焉…つまり滅ぼそうって奴なんだろ」
「邪神は別に世界を滅ぼそうなんて思っていないわよ」

 ずっと呆れてばかりだったが、さすがにその解答には虚を突かれた。

「じゃあ、何の為に…」

 月明かりの中で起こった殺戮。血だまりの祭壇。
 一体すべては何の為だと言うのだろうか。

「所謂邪教徒とかはそう信じているみたいだけどね。
 あ、私は邪神じゃないし、尋ねた事もないんだけどね、予想よ」

 彼女は断りを入れてから持論を述べる。

「より強大に増殖する為。邪神の源は負の力。
 不安や不満、憎しみ、悲しみ、恐れ…そう言った所謂負の感情が満ち溢れれば、邪神は強くなる。
 けれども滅亡何てさせたら、力がなくなる…ご飯食べれないって事」

 最期に妙に所帯染みた言葉で締めくくられた為に、何が何だか解らなくなってしまった。
 取り敢えず、邪神と言うものは蘇ると負の力を増幅する為に、争いを起こすと言うのが彼女の説と言う事なのだろう。

「ああ、そうだ。邪神について1つ忠告ね。
 いくら書面で調べても良いけど、実物を追うような真似はしない方が良い」
「…実在するんだろ?なんでだよ」

 これだけ話を聞いても、実在など半信半疑どころかほとんど信じていないが、
存在するのなら百聞は一見に如かず、のはずである。

「危ないからよ。決まってるじゃない。他人の人生を糧に生きる邪なる神よ。
 邪神を目の前にして五体満足でいられるという事はそれなりに抵抗をしなきゃいけない。
 神に逆らってまで手に入れたいものが、あなたにはあるのかしら?」

 すっと眼を細めて尋ねる彼女は、それなりに緊張感をはらんで見せた。
 話の内容と言うよりはその彼女の気配に珍しく皮膚が泡立つような気がした。
 彼は答える代わりに質問を質問で返した。

「あんたは、追ってんだろ?あんたには、あるのかよ」
「別に、そんな大したものはないけど」

 作法違反だと咎められるかと思ったが、取り立てて気にする事はなく簡単に答える。

「この眼で見て見たいって、私も単純な好奇心よ。
 後は…大きな流れには、逆らってみたいって所かしら」
「好奇心で神に逆らうか…」

 ぞくぞくとする。理解出来ないからではない。大いに共感できる志向だからだ。

「邪神が蘇った時代に生きた偶然を楽しみたいじゃない。
 全力でぶつかってそれで死ぬってんなら、それもまた、人生よ」

 にやりと笑う彼女は「邪神」に対立する1人の神にも見えた。それもまた危険な神だ。
 警告から始まったはずの彼女の言葉は、危険なものに魅かれる者にとってもはや道標でしかない。

「あんたはまさに“気紛れな女神”そのものだな」

 思わず口にした名称は、「魔女」よりも彼女の本質を捉えている気がした。

「あら、博識ね。それに光栄だわ。
 ちなみにその名で私を例えたのは2人目よ。
 けど、その神官衣装でその発言は危ないんじゃないかしら」

 まだアストライヤ教にて偶像崇拝が許されていた頃の2体の神を崇める時の名。
 必然を表す“静謐の女神”。その対となる偶然を司る“気紛れな女神”。
 その2つの名は40年ほど前の偶像崇拝の禁止と供に書物から姿を消している。
 完全なる一神教を掲げる現在は偽りの神の姿として禁句と扱われ、場合によっては宗教裁判にかけられる事もある。
 それほどまでにこの国でのアストライヤ教の力は絶大なのだ。

「裁判だとか別にどうでも良いし。
 実態のない神より女神信仰の方が気持ち、入るだろ」

 1人目は誰だったのだろうとぼんやりと思いながら、ズレかけた片眼鏡を指先でつまんで直そうとすると、その手首を彼女が掴んだ。
 そのまま片眼鏡を外させて、至近距離で彼女の瞳が、彼の左眼を覗き込む。

「やっぱり、左眼は駄目だったみたいね」

 吐息が掛かるほどの距離で彼女はぽつりと呟く。

「力不足で申し訳なかったわ」

 彼の左眼の視力は、ほとんど失われている。
 それども光は感じられるし、眼鏡を掛ければまったく見えない訳ではない。
 そもそも使い物にならなかった眼球を、ここまで癒してくれたのは他ならない彼女なのだ。
 こちらが感謝する事はあっても、謝罪される事など何もない。
 ウェルストは何か言おうとして、けれど、何も言葉が出て来なかった。
 特別珍しくもない、赤みがかった茶色い瞳に射抜かれて動けない。
 視界の端で、彼女の手が翻る。その指先が彼の瞳に向けられた。
 思わず目を瞑る。
 得体の知れない相手にする行動とは思えなかったが、何故か抗う気になれなかった。
 両の瞼の上を暖かな指が撫でる。
 何かの魔法だろうか。
 その手が離れた瞬間、長時間の読書で感じていた眼の鈍い痛みが消えた。

「あまり酷使すると、右眼も悪くなるから気を付けて」

 開いた瞳に映った彼女がそう言って、席を立つ。
 結局は先程の警告をする事が目的だったのだろう。
 じゃあねと口にして、気紛れな女神は彼に背を向けた。

「あ、待て」

 呼び止めてから、何も口実がない事に気がついた。別に何か用があった訳ではない。
 強いて言えばもう少しでも…。

「あー……この後、飯でも食わないか?」

 足を止めた彼女は一瞬、一度も見せていないきょとんとした表情だったが、すぐに先程までと同じ、含みのある笑みを浮かべた。

「悪いけど、煙草を吸う人とはお付き合いしない事にしてるの」

 別れの合図でひらひらと振られた彼女の左手。その薬指には指輪が嵌められていた。
 常識とまでは言わないが、左手の薬指に指輪を嵌めるのは既婚者の証としている地域は多い。
 それに先程までの仕草から右利きな事が明らかだった彼女が、わざわざ左手を示した意味を考えれば間違いはないだろう。

――下心のあるお誘いはお断り。

 明快な意思表示に取り付く島もない。
 そしてふと気付く。
 自分から声を掛けて、振られたのは初めてだった。






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