アッサラームの話----------
9話.ある僧侶の話A
赤い記憶。
光の記憶。
いつもそれは隣にある。
目を閉じれば甦る。
(嫌!)
彼女は叫んだ。
(嫌!嫌だ!)
何度も叫んだ。
しかし、声にはならなかった。
自らが動かない限り、思うだけでは何も起こらない。
音として発しない限り、思うだけでは誰も聞き届けてくれない。
解っていた。
けれども叫ばずにはいられなかった。
(嫌!…誰かが死ぬのは!)
もう既にたくさん死んだ。
だからもう死んでほしくない。
――だって。
声を出さなければ。体を動かさなければ。
死を迎えた人の為にではない。
まだ、生きている人間を生かす為に。
喉に腕に体中に命令する。
動け、叫べ。
だが、それぞれの器官は怠慢だった。
息を吸うのも億劫だった。
腕は手にしていた鉄の棒切れを取り落としそうなほど、力をなくしていた。
視野がどんどん狭くなる、白くなる。
むせ返るほどの血の香り。
ここに満ち溢れてる、自分から溢れている。
力が、体温が、思考が、生命が流れ、霧散していく。
何故そうしているのかも解らなくなって行く。
(嫌だ!)
誰にも伝わらない意味のない叫び。
心の中のことを誰が解ってくれる?
それこそ、声にならない思いを受け取ってくれるのは「神様」だけだ。
――そう、だから。
そのタイミングで手を差し伸べたその人は、彼女にとって神様だったのだ。
1本の白い花を手に彼女は街から離れたところにいた。
目の前には幾つもの墓標。大抵は石で出来ている。
郊外の墓場を迷いない足取りで歩く、青い髪の僧侶。
同じような墓標の中、しかし、彼女にとってのたった一つの前で立ち止まる。
よく手入れされたそれには、彼女が添える前に鮮やかな花に彩られていた。
特に気にせず、彼女は自らの花を供える。
清楚なその花は彩りの中、意外なほどに凛と栄えた。
そして墓石が点在するだけの空虚な空間に彼女は絵画のように納まっていた。
「お久しぶりです。先生」
彼女は墓に微笑みかけた。
彼が生きていた時とまったく変わらぬ柔らかさで。
そのまま静かに風に髪を弄ばれる。
一段と強い風が吹いて、彼女が唯一持って来た花もさらわれる。
しかし彼女はそれすらも、気に留めなかった。
「私の恩師よ。
親代わり…というか、お兄さんみたいな人だった」
つけていたことを知っていたのだろうか。
彼女は後ろを見ずにそう墓の主を紹介した。
驚かすはずだったブラウは逆に鼓動を早めた。
彼女は墓の主を恩師と呼んだ。
昨日のマロンの話に出てきたチェスナットだ。
彼女を大切にしていた育ての親は今、土の中にいた。
静かに墓標に跪く彼女は微動だにしない。
彼がつけていたことで彼女は特に彼を非難しなかった。
その代わりの沈黙がまるで自分を責めているようで、ブラウは口を開いた。
「…どうして」
死んだ、と訊きたかったのだろう。
途切れた言葉の意味を汲み取り、彼女は呟く。
「ここへ来る途中の壁。
傷があったの解った?」
「傷…?」
彼女の質問の意図を図りかねてブラウは戸惑う。
予想外に街の外へ出て行った彼女に注目していたので、
正直辺りは見ていなかった。
しかし、気付いていなかったことは問題ではなかったらしい。
彼女はこちらを振り返らず、ただ立ち上がった。
「そこですべてが終わったわ」
まるで絶望的なことを静かに呟いた。
「白昼での魔物達の襲来。
今思えばそれほど大規模ではなかったけど。
数匹の魔物が壁を壊して人々を襲い始めたわ。
先生は、魔物に襲われていた親子をかばって、
知らぬ間にいなくなっていた」
傷跡。
彼女は両親も魔物の手により失っていると聞いている。
その上、そこから救い出してくれた人もまた、殺されてしまった。
魔物にすべてを奪われているのだ。
「憎くはないのか?」
思わず彼は問うた。
「何が…?」
彼女は振り返って彼を見た。
今度は彼の言っていることが解らずに、彼女は首を傾げる。
「魔物が。魔物の…それを統べる魔王が」
憎々しく吐き捨てた。
それでは足りないというようにギリっと歯軋りする。
「俺は許せない。
奪った者を許すことはできない」
「テドン…」
以前、その名前を出されたときに過剰に反応してしまっていたから、
彼は彼女に自分の故郷を当てられたことを疑問には思わなかった。
魔王が住まうというネクロゴンド。
そこに近い地域で、世界に魔王の恐ろしさを知らしめた出来事。
テドン――それは魔物によって一夜にして滅亡した街。
「俺の両親も何もかも、あいつらが奪って行った。
俺はどうしても許せない」
彼は繰り返す。
気が付けば、何もかもなくなっていた。
やるせない思い。
それをぶつける先は1つしかない。
「お前だってそうだろ?」
彼はまっすぐ彼女を見た。
昔の言葉。
――私僧侶になりたいです。
幼い自分が、希望に満ちた瞳を向けている。
――…いえ、あなたみたいになりたいんです。
その瞳の先は他でもない。
唯一絶対の、崇高なる理想の人。
彼はとても優しく微笑むと、快く彼女を受け入れた。
回想が終わる。
瞳の先には鋭い眼に憎しみと悲しみを携えた盗賊。
「私は、許す、許さないとかは解らないわ」
彼女は正直に答えた。
彼は意外そうに目を見開いた。
「じゃあ、お前は何で…あいつと一緒に旅をした?」
昨日の言葉。
――あなたが仲間を連れているとは思わなかったわ。
マロンの意外そうな顔。
「私は…」
悩む必要などない。迷う必要などない。
自分が行うべきことはただ1つ。
「幸せであればいいと願う。
この、世界が。そしてあなたも」
彼女は、彼でもなく、墓標でもなく、遥か遠くを見て囁いた。
まるで叶わぬ夢を見る少女のように。
「それが、あの人の願いだったから…」
その言葉が彼の胸の奥に突き刺さった。
そして何故マロンが「壊れた」という表現をしたかが、何となく解った。
再びラゼリアが祈りを捧げ、その場を去っても、
ブラウは独り墓前に立ち尽くしていた。
「平たく言えば、チェスは5年くらい前に死んだわ」
昨日。
ブラウが浴場に向かってからマロンは、ストロフィス相手に話を始めていた。
先程の繰り返し。そして新しいことも。
「出来のいい弟子だったでしょうね。
ここに来るたびにもう、ラズの自慢ばかり。
あんな奴のどこが良かったのか、ラズもすっかりチェスに懐いてね。
先生、先生って奴を尊敬していて。
その目がまるで神様を見るみたいで…」
懐かしみ半分、悲しさ半分の表情。
更にそこに怒気が混じった。
「なのに、あの馬鹿は!」
声を荒げ、グラスを乱暴においた。
客の何人かがこちらを気にする。
視線を感じたのか我に返り、マロンは気持ちを落ち着けてから続ける。
「よりによってあの子の前で死んだわ」
声は抑えたが、そこにはまだ先程の怒気が含まれていた。
そして、ブラウが残していった揚げジャガをつまんでいるストロフィスの目を見て問う。
「普通、目の前で大切な人が死んだらどうする?」
「墓を造る?」
突然の質問に、彼は一瞬考えて答えた。
見ると、マロンがカウンターからずり落ちている。
「いや、そういうのじゃなくて、もっと感情的な…」
「脈を確かめる、わめく、泣く…」
気に入らなかったようなので、思いつく限りを列挙してみた。
望んだものがあったらしくマロンは頷く。
「そうよね。普通泣きわめくでしょうね。
…でも、あの子は泣かなかった。
チェスを抱いて、どうしようもないほど柔らかく、チェスに微笑んだわ」
ストロフィスが揚げジャガを持っていた手を止める。
脳裏には仲間の僧侶の顔。
「あの子の笑顔は変わらない。
でも、あの子はあの日から、変わってしまったわ」
いつもの穏やかな笑み。
それは変わらなければならないものだったはずなのに。
彼女はそこで話を止めた。
店内は騒がしいが、カウンターにはしばしの静寂。
「…よく解らない。
だいたい、なんでそんなこと俺に?」
ブラウに対してはぐらかした話を、
何故自分に話したのかが解らなくて彼は首を傾げた。
マロンは悲しい表情を崩しはせずに、また長い話を始めた。
山々から広大な平野に吹き抜ける強い風は、衰えを知らない。
雲があっという間に流されていく空の下、1人、彼女は帰路についていた。
白い壁がそびえるその場所で、彼女は顔を上げた。
「ストロ…?」
それはちょうど、傷のある壁の前だった。
ストロフィスは1人立っていた。
彼もまた彼女の姿を認めて、こちらに向いている。
壁以外何もないそこで、どう考えても彼女を待っていたようだった。
クラム以外の3人が街の外に出ている。
ラゼリアはその事実に気付いたときまず、
皆がいないと探し回るクラムの姿が過ぎった。
「どうしたの?ちゃんとクラムには言って出てきた?」
彼は首を横に振った。
とたんに現実味を帯びた想像のクラムが、
みんなの名前を呼びながら荷物をひっくり返している。
そんなところにいるはずないのに。
「私に何か用があったの?」
訊くまでもなく、
彼が理由もなくこんなところに来ることはあり得ないことだった。
しかし彼はその質問には答えなかった。
「ラズは何故旅をしているんだ?」
「何故って…魔王を倒すためでしょう?」
「違う、ラズの本来の旅の目的は?」
何となく既視感を覚える。
それが先程の会話だと解るのに、そう時間はかからなかった。
「ブラウと同じようなことを訊くのね」
何故、今なのだろう。
今まではお互いの心内など気にも留めていなかったはずなのに。
「世界中を幸せにするためよ。私は僧侶だもの」
彼女はブラウに答えたことを繰り返す。
あの時、ブラウは悲しそうな目をしていたが、
ストロフィスは腑に落ちない表情だった。
「あんまり、解んないんだけど、僧侶って何?」
「皆を愛す仕事よ」
彼女は何の迷いもなく即答する。
「皆…」
「そう、皆」
ストロフィスもクラムもブラウも。
世界中のすべての人を神様の名の下、平等に。
「1番は?」
らしくなく、質問をし続けるストロフィス。
彼女は、今度は間をおいた。
指先で白い壁の傷をなぞる。
雨にさらされ、風にさらされ、それでも今だ消えぬ傷を。
消したくない傷を。
「いないわ。いちゃ駄目なの。
1番は…神様よ」
ゆっくりと、自分でも確かめるように呟いた。
「かみさま?」
「ええ。ただ1つ、絶対の存在よ」
壁から名残惜しそうに手を離し、彼女は彼の方を向いた。
「帰りましょう。イシスに向けて準備をしなくちゃ。
それに、クラムが心配しているわ」
10年前から変わらないというその笑顔で彼女は言った。
しかし、マロンの話を聞いたせいだろうか。
彼には彼女が泣いているようにも見えた。
吹きぬけた風が、彼女の代わりに泣き声を上げる。
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