テドンの話----------
21話.その日A
目の前の彼女は本当に現実なのだろうか。
それとも思い出の風景なのだろうか。
半年以上も共に旅をしてきたのにも関わらず、ブラウが思ったのはそんな事だった。
突然昨日の事の様に蘇った記憶は、幻と現実の境界を曖昧にしていた。
短くはない旅を供にしたその仲間すら、今や幻と曖昧になっている。
現実だと思い込んでいたものこそ、幻だったのだろうか。
滅びた幻も、死んだと思っていた少女の思い出も。
そう考えてもう1度彼女を見る。
部屋の中にいた彼女の両親はいつの間にか姿が見えなくなっていた。
部屋には彼と彼女の2人だけ。
「俺の、思い出した記憶は正しいのか…?
本当は何が…俺達に、お前にあったんだ…」
その混乱が滲み出たブラウの瞳を見つめ返し、彼女は少し首を傾げた。
そして彼女は突然法衣を脱ぎだした。
ぎょっとして、すぐに後ろを向いて視線を外した。
「ちゃんと、見て」
強く命じられ、恐る恐る彼は振り返った。
下着だけになった彼女が背を向けている。
彼に示されたものに目が釘付けになった。
白い肌に刻まれた、生々しい傷痕。
一生消えないだろう魔物の爪跡。
それは彼の記憶に誤りがない証拠。
「私は、生きてるわ」
彼女ははっきりとそう告げた。
思い出した記憶は正しい。
目の前の彼女も現実だ。
だからあの罪も、本物なのだ。
苦しいすべては真実で、彼は今度こそ受け止めなければならない。
自分が決して、被害者なだけではなかったと。
悲劇の主人公などではなかったと。
明後日にもラゼリアを含めた隊商は街を去って行く。
ブラウはどんよりとした気分で母に頼まれたお使いを終えた。
ラゼリアに街に留まってくれるよう頼んでみようか。
いや、こんな何も無い街に留まる理由なんて何も無い。
きっと当たり障りなく断られて傷つくに決まっている。
けれども彼女と離れたくもない。
思考の迷路に迷い込んだ少年がそんな時に出会ったのは、
隊商が到着した時以来顔を合わせていなかった顔見知りの行商の男だった。
「お、なんか久しぶりだな。どうした?そんな暗い顔して」
「おじさん…」
ブラウは思い切ってその男に相談してみた。
小さな恋の喜びと苦しみの話を。
彼は子供の話と馬鹿にする訳でもなく、真剣に聞いてくれた。
そして1つの提案をした。
「お前さんの方が一緒に行くってのはどうだ?」
「え?」
「だから、自分も商人になって、あの旅に参加するんだよ」
提案された8歳の少年は目をぱちくりさせていた。
自分が街を出るなんて、思いもかけない事だった。
「ま、そんな歳で決めろってのも無理な話だからな。
もっとでかくなったら…その時も好きで居続けたら、
捜しに旅に出るってのもいいんじゃないか?」
「そっか!その手があったんだ!!」
「…へ?」
目をきらきらさせて、素敵な提案を前向きに受け止めた。
もとより行商人は憧れの職業だ。
更にこの隊商に入れてもらえば、ずっとこの先も一緒にいられる。
通りすがりの街の少年ではなく、彼女の特別になれる。
「僕、すぐ行商人になるよ!
それでラゼリアと一緒に連れてってもらう!!」
男はその言葉に少し苦い笑いを浮かべた。
そして若気の至りってやつだよな、と幼いブラウには意味の解らない言葉を呟いた。
「ま、上手くいっても行かなくてもお前さんの為にはなるだろ」
男はそう言って、ふとその表情を緊張感のあるものに変えた。
「…それでな、1つお前さんに頼みがあるんだ」
商人の頼みは、ブラウにとっては容易い事だった。
なので2つ返事で了承した。
「男の約束な。誰にも言わないでくれよ」
「まかせといて!」
男の約束という言葉自体にもわくわくするものを感じブラウは力強く答えた。
先ほどまでの落ち込みようが嘘の様だった。
行商人はそれを眩しそうに見下ろし、少年の肩をぽんと叩いた。
「じゃあ、頑張れよ」
思えば、それがその男と最後に交わした言葉だった。
それはテドン滅亡の前日。
そして運命の日がやって来る。
その日はテドン滅亡の日。
「僕の宝物を見せてあげるから!」
ブラウは、ラゼリアの手を引いていた。
人通りがほぼない街の北部。
そこは湿った空気の地下牢で、もともと光がほとんど入らない。
そんな構造の場所だが、夕刻の今だけは別だった。
ぎりぎりに傾いた陽は、低い位置に設けられた換気用の窓から丁度その地下を赤く照らす。
よく晴れた日のこの時間だけが、このうち捨てられた街外れの地下牢が別世界になる。
街で恐らく自分だけが知っている秘密の時間と場所。
この秘密の場所で、自分の素敵な宝物を見せて。
そして自分も彼女と供に連れて行ってくれと頼む。
それが彼の計画だった。
しかし、ようやく階段を降りきったところでその異変は起きた。
外の気配に違和感がある。
それは地面が近いからこそ感じられる、ざわめき。
たくさんの人々が走り回る気配。
誰かが声を上げている気配。
そして、しばらく後に漂ってきたものが焼ける匂い。
「様子がおかしいわ」
神妙な表情でラゼリアが呟いた。
「ど、どうしんたんだろ」
「火事…?いえ、この逃げ惑う感じは…魔物?」
「そんな…今までそんな事1度も…」
その可能性に一気に動揺し、ブラウはふらふらと元来た階段を上ろうとする。
しかし、ラゼリアが引き止めた。
「まだ外へ出ない方がいい。
ここなら一応外に扉もついているし、
魔物か何かなら気付かれずに済むかもしれないから」
「けど…!」
冷静な意見に、しかし居ても立っても居られない彼の耳に、地下にまで響く悲鳴が届いた。
「…っ!?父さん!母さん!」
「ブラウ!」
後ろでラゼリアが叫んだが、ブラウは気にも留めず外へ飛び出していった。
外へ出て、真っ先に見えたのは赤い色だった。
陽が沈んで闇が来る代わりに、家々がある方角が炎で赤く染まっている。
遠く、悲鳴や怒号、そして何かの鳴き声が響いていた。
「みんなっ…!」
何も考えず、ただ街の中心部に向かおうとしたブラウ。
しかしその前に、黒く大きな影が立ち塞がった。
こんな近くで見るのは初めてだった――魔物の姿。
「ひっ…!!!」
当たり前の様に魔物は爪を振り上げた。
恐怖から、彼はぴくりとも動けない。
「わっ!?」
目を閉じて身構えていたものとは別の衝撃に驚く。
瞼を持ち上げた時に視界に飛び込んできたのは魔物ではなかった。
「ラゼリア!?」
どうやら彼女が突き飛ばして魔物の一撃から守ってくれたようだ。
彼女は武器代わりに折れた鉄格子を手にしている。
「逃げるの!」
手を引かれ立ち上がる。
2人は更に街の外れに向かって走った。
街の外れ。
その茂みの影で、2人身を潜める。
「もう…認識されてしまったから、すぐ別の魔物も来るわ」
煙の匂いに交じって何故か、錆びた鉄の匂いがした。
「ブラウ、私が合図をしたら…ずっと海の方向へ走って」
「えっ?」
「いい?」
言葉には首を横には振らせない強い意志があった。
間近で見る彼女の赤い瞳に気圧される。
「ラ、ラゼリアは?」
「私は、逆の方向に逃げる。
2人で一緒に…逃げるより、
バラバラに逃げた方が…魔物の数も分かれるから」
全力疾走したからだろう。
彼女は酷く息が乱れていた。
「ブラウは、すごく足が速いんだもん。
…きっと逃げ切れる」
彼女は息を整えるよう大きく呼吸した。
「けど…」
「できるよね」
頷いても横に振ってもなく、ブラウはただ震えていた。
彼女は彼をあやす様にそっと髪を撫でた。
「走り出したら…絶対振り向いちゃ駄目。
足がすくんで、止まっちゃうといけない、から」
そう言うと苦しそうに何度か息を吐いた。
「ラゼリア…」
「走って…」
自分達の方に大きな影が迫っている事に、ようやく気付く。
もう時間はない。
「走って!」
彼女は再び命じて、ブラウの背を思い切り押した。
それを合図に、彼は全力で駆け出した。
足に絡まる雑草を強引に振り払いながら、
けれども別れた少女と自分を追っているかも知れない魔物が気にかかった。
彼女はどちらに逃げたのか。
魔物は何匹向かって来ているのか。
せり上がる恐怖に勝てず、約束を破って振り返ってしまった。
その目に映ったのは、愛しい少女の姿。
彼女は逃げずに鉄格子で恐ろしい魔物と対峙していた。
彼女の姿に、一瞬で地下から飛び出した時の事が思い出される。
彼に向って振るわれた魔物の爪の前に飛び出して来た彼女。
苦しそうに息を吐いていた彼女。
錆びた鉄の匂い――まだ知らない、血の匂いに満ちていた彼女。
その背は、驚くほど鮮やかな赤に染まっていた。
あのままじゃ、死んでしまう。
それは幼い子供でも容易に想像出来た。
魔物の牙から逃れたとしても、あんなに血を流して長く生きていられる訳がない。
そもそもあの傷で走れるはずがない。
だからこそ彼女は、ブラウだけを逃がしたのだ。
それが解っていても、ブラウは街から離れる足を止めなかった。
――走ると約束したから。
――今更戻ってももう遅い。
――自分がいても何も出来ない。
すべてが言い訳だった。
――ただ怖くて。
だから戻らなかった。
そのまま逃げ続けた。
自分がオトリになれば。
自分が彼女を守れれば。
自分を庇わなければ。
そもそも自分があの牢から出なければ。
他の助けがないような場所に連れ出さなければ。
彼女は、あんな目にあわずにすんだのに。
――魔物に殺されずに済んだのに。
いや、
大好きだった彼女を危険な目に合わせ、そして見捨てた。
「うぁ…」
彼女を殺したのは、
――僕だ。
「うわあぁぁぁぁ!!!」
少年は罪を認め、そしてそれと同時にすべてを忘れた。
罪を、そしてそれを裏付ける少女の存在を。
失われた7日間。
それは恋した少女の出会いに始まり、死で終わった、喜びと悲しみの日々。
忘れていれば被害者でいられた、罪の記憶。
何もかもを振り払うように、ブラウはひたすら海へ走った。
今度はただ1度も振り返らなかった。
膝から崩れ落ちた。
法衣を再び着直し、正面を向いた彼女の手を握る。
「ごめん…ごめん…」
縋り付いて来るブラウに彼女は何も言わなかった。
ただ、優しく髪を撫でられた。
幼い別れの直前と同じように。
いつだったか、同じように髪を撫でられた。
その時に感じた、湧き上がる悲しみ。
身体は忘れていなかったのだ。
失った7日間にたった1度だけの出来事を。
彼が失ってもなお、刻まれ続けていた優しさ。
それが彼の胸を更に締め付ける。
――みっともなくてごめん。
――怪我をさせてごめん。
――見殺しにしてごめん。
――約束を破ってごめん。
――君の存在を忘れていてごめん。
あらゆる想いを詰め込んで、それしか話せないかのように謝罪を繰り返した。
彼女は罵りもしなかったし、謝罪を止めもしなかった。
ただ1度だけ、彼の言葉に紛らわせる様に呟いた。
「ごめんなさいね」
彼女が謝った意味は解らなかった。
けれども顔を上げなくてもその表情は解る。
彼女は初めて会った――正確には再会した日の夜と変わらない、
すべてを許しそうな瞳で彼を見つめているのだろう。
彼女は彼を恨んでいない、憎んでもいない、怒ってもいない。
彼は始めからすべて許されていた。
それは喜ばしいはずなのに。
何か取りこぼした様に切なかった。
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