死を廻る話 〜透明な乾杯〜
「これはあれか。臨死体験って奴か?」
「いえ、明らかに臨死じゃなく、既死体験じゃありません?
だってほら。蘇生措置もとっくに見込みなしですし。死に済みですよ」
彼女が指差した場所には、顔に白い布を被せられた人が横になっていた。
電気もついていない暗い室内。
部屋の名前は霊安室。
「死に済みっていうなよ。何か激しく嫌な表現だ、それ」
勘弁してくれと首を振った彼と、そうですかととぼける彼女は初対面だった。
つい数時間前まで、同じバスに乗っていたというだけの間柄。
「で、なんでこんなとこにふよふよ漂ってんだ?」
乗っていたバスが事故を起こし、気付ば2人だけが救急病院の廊下にいた。
ただし、透明な存在で、虚空を彷徨っていた。
通り過ぎる誰の前に立っても、誰も気配すら感じてはくれなかった。
見えるのはお互いのみ。
彼の方は、いい加減状況も呑み込めたが、どうにも納得出来ない様子だった。
「お迎えが来たりするんじゃねーの?
死んだら普通、ほら、死神とかがさ」
「死神なら、さっき見ましたよ」
近所のおばさんを見かけた程度の気軽さで、彼女はさらっと言った。
一瞬、彼の目が点になる。
「はぁ!?どこで!?」
彼女はすぐに答えようとして、けれども、少し悩んで逆に訊ねた。
「あー…ひょっとして、即死でした?」
自分が即死かなんて訊ねられる日が来るとは思わなかったと、彼は打ちひしがれる。
しかしながら、彼女が答えを待っているので、取り敢えず答える。
「即死かどうかは知らないけど。
衝撃でガンってなってからまったく記憶がない」
彼女はそれを聴いて、やっぱりと頷く。
「私はどうやら、出血多量で死んだっぽいんですけど、多少意識が残ってて。
その時ずーと、私のこと見てましたよ。
うすら笑って、嬉しそうに」
「嬉しそうに、死んでいくとこ見てたってことか?」
何て趣味の悪い。
彼は思わず身震いする。
「死神は死人に興味はないらしいですね」
死に逝く人にしか。と付け加える。
「だからたぶん迎えに来て何かくれませんよ。
なんせ、私たち、死に済みですから」
「だから死に済みって言わないでくれ」
再びふるふると首を振る。
そして長いため息を吐いた。
「天国だとか、地獄だとかに行けないものなのかね。
…え、まさか死後の世界とかねーの?
死んだら漂いっぱなし?」
「そうだったら、今頃世界が幽霊で飽和状態ですよ。
生まれ変わるか、消滅するか、もしくはどこかに死後の世界があるんですよ。
私たち、うっかり取り残されたか何かなんじゃないですか?」
「うっかりじゃ済まねぇよ!」
彼女の仮説に思わず彼は全力で返す。
しかしながら彼女に文句を言っても何もならない。
「ふわふわ状態が嫌なら、何とか正しい道に戻らなきゃいけませんね」
「…自力で?」
そんな道があるかどうかも解らないというのに。
彼女はこくんと頷いた。
「死のプロフェッショナル、死神が何の役に立ちませんからね。
半死に状態を眺めるのが趣味の変態は当てになりません」
「…しょうがねぇのか。ていうか、死神を変態呼ばわり…」
まさか死神が、職業ではなく、趣味だったとは。
彼は少しの間考えて、突然自分の両頬をぱあんと叩いた。
彼女が少し驚いていると、すっきりとしたように顔を上げた。
「考えても仕方ないなら、何の宛てもなく、探しますか。死後の世界」
「そうですね」
「それにしても…」
きょろきょろと辺りを見渡し、壁や扉に触れようとした。
まるでそれが当然の如く、何でも通過する。
「新たな旅立ちに乾杯も出来ないってか?やってらんねーぜ」
当たり前だが、気合を入れても、その辺りのものに触れることは叶わない。
有名な外国映画のようには行かないらしい。
うな垂れる彼に、彼女はふっと笑う。
「じゃ、気持ちだけ」
まるでジョッキを持っているように、右手をくいっと上げた。
「結構飲んでた口だな…」
様になっているその仕草に多少驚きながらも、彼も右手で見えないジョッキを掲げた。
短い乾杯の音頭を取る。
「出会いと、死への旅立ちに」
透明な2つの杯は、気のせいか心地よい音を立てた。
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