――夜がずっと明けていない気がした。
レマージュ兄妹の長い夜 ―中編・灰色の未明―
人の沢山の気配があると言うのに、妙な静けさだった。
今がまだ明け方前だからだろうか。
それとも人が死んだ時と言うのはこう言うものなのか。
ぼんやりと見上げる虚空には色すらないように思える。
鼠色の箱に仕舞われてしまったように、ただただシャレオはその場に居るしかなかった。
「シャレオ!!!」
彼女の静寂を破ったのは、勢いよく扉を開く音と聞き慣れた声。
もちろん声の主を知っていたが、緩慢な動きで姿を捉えようと首を動かしている間に、力強く抱きしめられた。
「兄さん…」
「シャレオ…無事で良かった…!」
彼女の兄は黒を基調にした制服を着ていた。
普通に着ればかなりかっちりした印象になるはずの衣装だ。
しかし今の彼の着こなしは明らかに制服の下から寝間着が見えていたし、
何があったか髪に枯れ葉や木くずが刺さりまくっていたが、さすがに突っ込む気力が湧かなかった。
彼女、シャレオ・レマージュの兄アスィード・レマージュは実家を離れ、
普段は所属している聖アストライヤ第2学園の寮で生活している。
定期馬車で乗り継いで行くと丸1日以上は掛かる道のりを、
知らせを受けて最速の方法で帰って来た事は訊ねずとも知れた。
彼は何度も良かった良かったと呟き、その度に腕に力を込める。
シャレオの淡い金髪が乱れ、鮮やかな紫の瞳は閉じざるを得ない。
そろそろ息苦しさが限界に着た時に、疲労と戸惑いを含んだ声が彼を呼んだ。
「アスィード君。
着て早々悪いんだが、葬儀の打ち合わせをしたいんだ」
アスィードは自分の妹を腕に閉じ込めたまま扉の方に視線を向ける。
この1日何度も耳にしたその声は父方の叔父の物だ。
葬儀。
そう、彼女達の父と母の葬儀だ。
2人はそろって昨日亡くなった。
叔父夫婦へ連絡が行き、更に学園へと早馬で知らせが行き、兄がここにくるまで丸1日。
両親が死んで、もう、いや、まだ1日しか経っていないのだ。
「犯人はまだ捕まってないんですよね!?
なのにシャレオを1人きりにしておくなんて…!」
犯人、と示されたように、昨日起こったのは事件だった。
それも強盗殺人事件だ。
貿易商を営んでいた父が有する彼女達の屋敷に、昨日の夜明け前に不審者が侵入した。
被害者加害者、どちらも刃物を持った乱戦の末に、
忍び込んだ2人のうち1人と、少女の両親が揃って命を失った。
残る犯人は深手を負った状態で逃走し、未だ行方は掴めていない。
「もちろん警護の者は雇っているよ。
けれども近くには、その…知らない男が側にいるのを怯えるようだから」
叔父は躊躇いがちに彼女を見て答えた。
だが知らない男、と言うのは少々異なっている。
強盗に腕を取られ連れて行かれそうになった彼女は、
悲鳴に気付き訪れた警邏中の兵士だけではなく、駆けつけてきた叔父にすら身体を強張らせていた。
さすがに唐突だったのもあってか兄に抱き締められても平気だったが、
今も叔父やその他訪れている弔問客の側に自ら赴こうとは思わなかった。
「私は大丈夫だから…」
揺れないように精一杯声を出す。
なんといっても両親の葬儀であり、兄であるアスィードは長男だ。
不安はあるが両親の見送りをないがしろにさせる訳にはいかない。
「レマージュ。さすがに行かないとまずいだろ。
ご両親が亡くなったんなら、この家の家長はお前なんだぞ」
脳内で思っていた事が聞き慣れない声音で発せられ、シャレオの耳に入り込んだ。
低すぎない低音。
兄に抱き締められている為すっかり視界が塞がっているが、明らかに若い男性の物だ。
「でも…」
アスィードが腕の力を緩め声の主を見た所、レマージュと言うのは彼女の兄を指したものなのだろう。
叔父の意見には簡単に従う気がなさそうだった彼だが、会話に交じった声には揺れた様だ。
「心配なら俺が見てるよ」
そう返って来た応えに、アスィードは完全に腕の力を緩めた。
そして思わせぶりな間を置いてから、兄はやや低い声を出した。
「……手を出すなよ」
「……お前俺を何だと思ってんだ?
そんなに飢えてねぇよ。こんな小さい子に手ぇ出す訳ないだろ」
「ごめんな、シャレオ。すぐ戻って来るから!」
小さく頷く。
正直もう少し兄が理由を付けて側に居ようとするだろうと思っていた為、彼女は内心驚いた。
妹に対するアスィードの執着心はあらゆる事項の最優先にシャレオを据えるほどだ。
その彼女を任せようというのだ。しかも命の危機があった後に。
両親が亡くなった事で彼自身もかなり衝撃を受けているはずの中、
冗談めかしたやり取りにアスィードが相手に絶対の信頼を寄せているのが感じられた。
「じゃ、ウェル、頼んだ」
ウェルと呼んだ彼に告げて、アスィードは先行した叔父の後に続いて行った。
ようやく彼女の視界にも、兄が会話を交わしていた相手が入る。
アスィードと同じ聖アストライヤ学園の制服。
ちなみに彼女の兄とは違い服装や髪に乱れなどない。
片耳には神官の階級を得た事を証明する耳飾りがぶら下がっている。
くすんだ赤毛。彼女の兄を見送った濃い灰色の瞳が視線を感じてか、彼女を捉える。
美少年と言って良いだろう彼女の兄とは全く違う部類だが、鋭さがある整った顔立ちだった。
彼は開いたままの扉をあえて閉じようとはせず、彼女に笑みを向ける。
「ちょっと座らせてもらっていい?」
彼は彼女が座る長椅子の斜めに置かれた1人掛けの椅子を指差した。
少し躊躇いはしたが頷いた。
「一晩中馬に乗ってたから、だるくってさ。ごめんね」
そう言って彼はホントにくたびれた、と言うように腰を落とした。
――…なんでだろう。
知らない男だと言うのに不思議と怖くなかった。
そこでふと気付く。
この兄の友人はさっき叔父が言った言葉を気に留めていてくれたのだと。
兄よりもずっと体格の良い相手が唯一の脱出口である扉に佇んでいたら怯えていただろう。
見知らぬ相手と密室に居ると思うと恐れていただろう。
目的が解らない状態で近寄られていたら警戒していただろう。
扉を閉めなかったのも、理由を付けて側に来たのも、
もちろん真横に座らなかったのも、すべて自分への気遣いだと。
しかし当事者の彼はそんな事を感じさせないような気楽な振る舞いだった。
「じゃあ改めて。はじめまして、シャレオちゃん。
俺はウェルスト。君の兄貴とは同じ寮室の同級生だ」
同じ寮室、という言葉で彼女の記憶がするりと繋がる。
「……兄さんの手紙を編集してくれてる人ですよね」
「レマージュ…妹に編集してんのバレてるじゃないか」
彼はここには居ない友人へわざとらしい溜息を贈る。
「ある日突然手紙がすっきりまとまり出したら、誰でも気付きます」
長々と日常が綴られた数十枚の紙束が、突然手紙と呼ぶに相応しいものになって届いた。
その日はさすがに筆跡を真似た別人が書いたのかと疑ってしまった。
返事に戸惑いを記載すると、返信には友人からの助言があったとされていた。
「洞察力に優れてるね。
君の兄貴より冷静だし、将来有望だな」
ウェルストと名乗った兄の友人がふっと、少し目を細めて笑みを浮かべる。
その眼差しを受け止めると、圧し潰されそうな苦しさを持っていた心臓が、少し落ち着きを取り戻したような気がした。
「じゃあ……」
「失礼する!!」
少しでも気を紛らわせようと続けた台詞を野太い声に遮られ、彼女は身を強張らせた。
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