「美しい棺」





彼の墓前





 むせ返るほどの甘ったるい香り。
 ルリ・カーシルトは愛らしく咲き誇った薔薇に取り囲まれた墓標を見て、
 手にした花束を供えるのを止める事にした。
 代わりに結びを解いて宙に向かって放り投げると、バラバラになった花弁が降り注ぐ。
 季節外れの雪の様な光景に彼女はただ佇んでいた。

 感傷に浸っていたのは花弁がすべて宙から消えるまでだけ。
 こちらに近付いて来る気配に彼女は振り返った。
 そして目に入った人物がまっすぐにこちらを見ている事に多少驚きを感じ、
 合った目を逸らすことも出来ず到着を待つ。
 さらさらの長い髪とふわふわの衣装の裾を揺らしながら現れたのは、
 何年経っても甘い砂糖菓子の様な雰囲気の女性。

 女性は当たり前の様に挨拶すらせず口を開いた。

「魔女、は相変わらず魔女のようね。
 まだ悪夢の様に噂が彷徨っているわ」

 まるでお茶に誘うように柔らかい笑顔の女性に、ルリもわざとらしい笑みを浮かべる。

「そちらこそ、随分と言い付けを破っておられるようで」
「ルディウ様は始めから私が言う事を聞くなんて思ってらっしゃらないわ。
 言い付けを良く守る魔女とは大違いなの」

 墓標の主の名を呼んで、にこやかに告げる。
 そしてその表情のまま、ルリをじっと見ていた。
 見られている側としては、珍しく戸惑うしかない。

「ええっと…。どうかされましたか?」

 墓標の主の生前、生後。
 どちらを合わせてもこの主の妻から話しかけられた事などなかったはずだ。
 それどころか、視線を向けられた事すら恐らくないだろう。
 会話として成り立ってないような、彼女の独り言しか聞いた事はない。
 一体、どう言う風の吹き回しだろうか。
 彼女は、その問いに明確に答えた。

「私、あなたが嫌いだから」

 その台詞を聞き、とうとう多少では済まされなくなり驚愕の表情を浮かべたルリを見て、
 女性はきょとんとしたように首を傾げた。

「なぁに?嫌われていると思わなかったの?」
「いえ…、興味の対象だったと言う事に驚いただけですよ」

 自分にと言うのももちろんだが、この女性の興味は墓標の主にしかないと思い込んでいた。
 何かを嫌うと言う事は、そのものに興味を持っている裏返し。
 そういう意味で意識をされていた事が予想外だったのだ。

「だって、あなたの事、ルディウ様が口にした事があったから」

 墓標に目を向け、独り解ったようにうんうんと頷く。

「だから」

 だから、嫌い。
 嫌い、だから。

「泣かせてやろうって気分になったのよ」
「泣かせる?」
「そう。ルディウ様やマクル達だって貴方を泣かせはしなかったでしょ」

 この女性に裏などない。
 それに至る思考は全く理解出来ないが、彼女がそう言うのなら、
 本当にただ嫌いだから泣かせに来たのだろう。

「私、聞いたことがあったの。
 魔女がルディウ様にとってどう言った存在か」

 聞き捨てならない言葉に、戸惑いは収まらないまま固唾を飲んだ。



 どう言った存在。
 例えば「秘密兵器」とか。
 「右腕」はさすがに言い過ぎだろう。
 あちこち色んな場所の報告をしていたから「目」とかだろうか。
 もしくはそのまま「魔女は魔女」とか。



「翼」
「え?」

 思考を遮るように唐突にまた答えが与えられる。

「翼だとおっしゃったの」

 それは普通の人間にはない器官だ。

「私には意味が解らなかったけど、きっとあなたには解るんだわ」
「…は、…――」

 思わず出た言葉の端切れはそれ以上何の意味も結ばなかった。
 代わりに脳裏に病床の雇い主が蘇る。





 馬鹿な事だと…――

『馬鹿な事だと実行に移さなかった事を後悔するな』

 生前のルディウの台詞。
 到底出来ないような事を――簡単に空を飛ぶと言うルリに彼が向けた言葉。
 かつて抱いた手の届かない望みを、それを諦めた事への後悔。

 “空を飛べたらいいのに”。
 翼。それは人が願い、夢見る物。

 反省はしても「もしも」などと言う振り返りはしない主義だ。
 けれども、もしも。もしも。もしも。
 例えば森の家で本でも読んでいる時に。
 例えば当てもなく旅していた時に。
 彼が病になる前に。
 いや、彼がかの女神と別れる前に。
 
 与えて上げたかった。
 笑ってしまうくらい幸せな結末を。
 せめてそれを願える場所を。
 彼の翼として、届かないと思った場所へ…――





「ほら、泣いた」

 思い通りの玩具を手に入れた子供の様な無邪気な声がルリを現実へと引き戻した。
 夢想していた時間は酷く長かった様に感じていたが、実際には数秒だったようだ。
 言われた通り、彼女の瞳から落ちた涙の粒が頬をつたう。

「最強と名高い魔女を泣かせたって事は、
 私がこの世界で一番強いのじゃないかしら」

 嫌味ですらなく、心の底からそう思ったその人は、とても嬉しそうな笑みを浮かべた。
 満足げに頷くと、ルリなど初めから居なかったかのように、別れの挨拶すらせず去っていく。

 砂糖菓子の様な貴婦人の後姿を見ていても、悔しいとか、してやられたとすら思わない。
 逆に感謝も喜びもない。
 ルディウもマクルも手を焼いたはずだとぼんやりと思っただけで。

 ひっそりと想い出に浸りたい気持ちも、彼女の植えた甘すぎる薔薇に囲まれては削がれてしまう。
 せめてもの意趣返しに香りを吹き飛ばすくらい強い風を一陣吹かせた。
 その風に紛れて墓標に一言呟いてから、彼女は翼があるかのように空へと消えた。






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