ハネ


 いつも、木曜日は6時半にここを通る。
 普通に帰れば、ちょうどその時間。
 もし早めに帰ることがあっても、適当に時間をつぶし、やはり6時半に通る。

 だから今日も、私は6時半にここにいる。
 目線を少し上げると、今日もアレが見えた。


 夏に泳ぎたいとも思わない、大きくも小さくもない河。
 雨の少ないことで水位はかなり下がっている。
 泳ぐどころか、足をつけて水遊びするのも難しいだろう。
 そんな河に、黒っぽい橋が架かっている。

 その橋桁に1人座る男。
 ジーンズにTシャツ。顔立ちは距離があるのでなんともいえない。
 何をするわけでもなく、ぼーとしている。

 そして視線を少し動かすと、その男の背に羽がついていた。

 いわゆる天使の翼、という感じではない。
 そう呼ぶのにはそれはぼろぼろで、少々みすぼらし過ぎた。

 半透明なそれは、どうやら私以外には見えていないようだった。
 普通と呼ぶには無理のあるものがいるというのに、時折橋を渡っていく人々はそれに気を留めてもいないし、何の反応も示さなかった。

 可能性は2つ。
 私には霊感みたいなのが備わっているか。
 もしくは、いや、こちらの方が可能性は高いが、私の頭がイカレたか。

 どちらにせよ、その橋の男以外に羽が見える人はいない。
 その意味は解らないが、私はこうして毎週羽を観察している。
 大概私も暇人だ。

 しかし、その羽の男も輪をかけた暇人だ。
 私がそこに着く前からそこにいて、私がそこから去る時にまだそこにいるのだから。
 しかもそこそこいい歳をしてそうなのに。

 河沿いの公園のベンチに腰掛ける。
 初めは近すぎるかなとも思ったが、男はこちらを見もしなかった。
 羽を見つけて4週目、もうすぐ1ヶ月だ。

 羽を見つめる、気のせいか少し濃く見える気がする。
 ひょっとして、毎週少しずつ濃くなっていたのだろうか。

 だんだんはっきりとしてくる羽に、楽しい想像をしてみる。
 とうとうその羽が現われたその時に、彼はその羽を大きく広げ、天に向かって橋から飛び立つのだ。

 しかし想像とは裏腹に、濃くなるに連れてその羽は益々ぼろぼろになっていった。



 そして、もう何週目か数えることもやめた頃。
 いつもの公園から見上げると、羽は男の背中ではっきりとその存在を誇示していた。
 しかしまるでむしりとられたような姿は雄大とは程遠いものだった。

 私ははっきり見えた記念に、1度間近で見てみようと、歩き出す。
 黒い橋に差し掛かり初めて男の横顔を見た。
 十代後半、高校生か大学生くらいの歳だろうか。
 今日もぼーっとどこかを眺めていた。

 できるだけ距離をとって男の背を見る。
 羽はぼろぼろだが、汚れてはいなかった。
 橋の色と対照的に白い。

 だが、白が必ずしもいい色だとは思わない。
 例えば死に装束は白色だし。

 そんなどうでもいいことを考えていると、男に変化はないものの羽に動きがあった。
 今まで風になびきさえしなかったのに。
 決して大きくない自分を精一杯広げて、ぴんと張る。
 それはまるで飛び立つときのようで…――

 あれでは飛べない。
 大空を舞うことはできない。

 思わず私はその羽に手を伸ばした。
 妄想かも知れないそれには確かに手ごたえがあった。
 ただ、目に映る羽の感触ではなく、頼りない糸のような感触。
 戸惑いはあったがそれを引き寄せる。

 軽く小さい悲鳴を上げて男がのけぞった。

「うわ、ちょ、あ、靴落ちた…」

 バランスを何とか建て直し、男が振り向く。
 突然現実に引き戻されて驚いたようだった。

「飛べないよ」

 私は自然と言葉を発していた。
 あの羽が妄想だとしたら、私はただの変な人だというのに。

「別に自殺しようとしてたつもりは…」

 私の黙考も徒労に終わり、男は戸惑いもあらわに首を振った。
 しかし、どうやってもそれは自ら答えを言ったようなものだった。

 解ったことがいくつかあった。
 どうやら、男自身は羽の存在を知らなかったこと。
 毎週毎週、彼はここで命を絶つか否か考えていたこと。
 そして羽は空ではなく、目下の河へ、死の世界に飛び立つために羽ばたこうとしていたこと。

「ただ、もう生きていたって何にもいいことなんか…」

 私がそんな事を考えているとは露知らず、彼は実に消極的な発言をしていた。
 羽は羽ばたきをやめ、益々枯れていく。
 それを見て、何だか無性に醒めた気分になってきた。

「なら、こんな中途半端な高さじゃ無理でしょ」

 私は橋から体を乗り出し、下を見た。

「へ?」

 男は目を丸くして間の抜けた声を出した。

「打ち所が悪かったら、いや、良かったら逝けるかもしれないけど。
 どっか骨折るか、最悪死ぬこともできずに一生ベット生活」

 私は目の前の男が下に飛び降りる様を想像して言葉を紡ぐ。

「いや、あの」

 挟もうとした言葉は無視を決め込む。

「あ、電車への飛び込みもやめてよ。何万人にも迷惑をかけるし。
 遺体回収の費用と電車清掃、停車によって遺族は莫大な負債を抱えることになるし」

 ここは譲れない。
 電車の遅れには何度も嫌な思いをしている。

「その…」

 情けない声は河のせせらぎほどにも聞こえない。

「ビルからの飛び降りは、人巻き込むこともあるし、首吊りは色々汚れるし。
 睡眠薬は副作用で後遺症が出るかも知れないらしいし」

 駄目駄目っと素振りをつけると、男もそれにつられそうになっている。

「ちょ…」

 そろそろ泣きそうになって来ているが、私は一気に話す。

「やっぱ確実なところは数mgで致死量の劇薬使用かな。
 まあ、ちょっと入手ルートの確立が必要だけど…」

 我ながら適切なアドバイスだ、とくだらないことを思う。

「ちょっと待てよ!」

 男は口をパクパクさせながら何とか叫んだ。

「普通こういう時はもっと優しく慰めるもんだろ!
 なんでそんな怖いこと言うんだよ!」

 片方だけ残った靴で地団駄を踏み、男は切実な瞳で訴えた。
 それを冷たい瞳で受け取って言ってやる。

「何言ってるの?口先だけの慰めで止めるくらいなら始めから無理なのよ。
 悲劇の主人公気取ってる前にもっとすることがあるんじゃない?」

 別に他人の人生にも生死にも興味がないが、私は付いている羽に同情していた。
 落ちるために朽ちていく羽を哀れに思っていたのだ。
 私は最後に指をぴしっと突き出した。

「死ぬのなめんじゃない!死ぬにしたってもっと真剣に死んでよね!」

「ご、ごめん…」

 私の覇気にたじろいで彼は思わず謝った。
 彼の表情は憑き物が落ちたようなにも、狐につままれたようにも見える。

 でももう私にとってはそんなのはどうでも良かった。
 その時、私の目はただ1つのものを見ていた。
 美しく生え揃った白い羽が、男の背中から離れ、空へと飛び立って行くのを。
 何かから開放されたそれはとても清々しそうで、私は口元を緩ませた。

 やはり、羽は舞い上がるのが美しい。






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