――赤と黒の底辺で。



奈落で密事



 赤いな、と少女は思った。
 あっという間の事で、それくらいしか思いつかなかった。



 違法な経路で安く売られて来た幼い少年少女達。
 数時間か数週間か。
 最低限の食料だけ与えられて、暗い倉庫に閉じ込められてどれくらい経ったか良く解らなかった。
 時々扉が開き、新しい子供が入れられたり、入っていた子供が連れて行かれたりした。
 まだ数日しか経っていなかったのが解ったのは買い手が見つかったと倉庫から出され、
 無数の男達が居る部屋の片隅で少女が小麦色の髪の上から水を掛けられていた時だった。

 返品されないよう汚れくらいは落としとけよ。
 兵士の巡回経路変える賄賂は上手く回せたのか。
 こんな棒見たいな身体に大金出す奴の気がしれねぇよ。
 変態以外にも何か儀式で使う時とかもあるらしいぜ。
 どっちにしろそりゃ変態だろ。

 断片的に耳に入り込んで来る言葉から、この先に倉庫以上に暗い日々が待ち構えている事が確実だった。
 倉庫に返りたいとも、
 お酒や賭博のせいで明日の食費すら失くして売り払われるような今までの日々に戻りたいとも思わなかったが、
 さすがに少女は焦燥に駆られていた。
 咄嗟に汚れた服を毟り取ろうとしていた男の手を噛んだ。
 弱った脚では逃げられないと解っていたけど、せめてもの抵抗だった。
 当然激昂した男は、痛っ、と顔を顰めた後、少女の胸倉を掴む。

 その時、にわかに騒々しい気配が殴ろうとした男を止めた。
 部屋の外からどなり声などが聞こえ、やがて開いた扉からは、1人の男が現れた。
 目深に巻いた黒い布からこぼれたくすんだ赤い前髪と、
 濃灰色の鋭い瞳は妙にはっきり見えたが、口元も首に巻いた布で隠されており、年齢は良く解らない。
 ただ、どよめいた部屋の空気で、その登場人物が男達の仲間でない事だけは明白だった。

「依頼主の趣向でさ」

 何者だ、見張りはどうした、という殺気だった質問の答え以外を侵入者の彼は口にする。

「こう言う事業は問答無用で潰す事になってるから」

 言い終わるのが合図だったように部屋の男達がそれぞれ武器を取り出して襲いかかった。
 圧倒的に不利な状況だと言うのに、彼は振り回される刃を器用に避け、無駄のない反撃を繰り出して行く。
 骨の砕ける音や、くぐもった呻き。
 そして飛び散る液体の香り。

 何となく応戦する機会を逸していた少女を捉えていた男だけが最後に残る。
 男は恐怖に駆られた様に助けを叫びながら少女を放り出した。
 しかし少年少女が幾ら泣き叫んでも誰も来ない様な立地。
 野太い男の悲鳴で、駆けつけてくれるような人間はいないだろう。
 案の定それ以上の抵抗をする事も出来ず、男は悲痛な声を上げて床へ転げて行った。

 床が赤いな、と少女は思った。
 人間にはこんなにも沢山赤いものが詰まっていたのだと的外れな感想を抱いていた。
 それくらいしか思いつけないほど、あっという間の出来事だった。
 床から顔を上げると、侵入者であり殺戮者の彼と目があった。
 彼は、売られて来た子かな、と呟くと尻餅をついていた彼女に恭しく手を差し向ける。
 おずおずとその手を掴むと、ゆっくりと身体を起こしてくれた。

「ここで見た事、秘密に出来る?」

 あまりにも場違いな、優しい声音だった。
 何か秘密にしようと言う事などあったかと言うくらいに。
 しばらくぼんやりとしてしまっていたが、
 ようやく彼が言っている事が、この惨状だと言う事に辿り着き、彼女はゆっくりと首を縦に振った。

「そう、よかった。じゃあ、約束」

 彼は右手を小指だけ立てて差し出した。
 それはどう見ても子供じみた指きり。
 子供である少女には馴染みのその動作を、誘われるように行う。
 友人達と何度も行ってきたはずのその行為はしかし、少女が未だ知らないような背徳感を抱かせた。
 破ったら命さえ無くなる程、重く甘美な戒め。

 真っ赤な中で少女が酔った様に放心していると、扉に向かっていた彼が手招きする。

「行くよ」

 その先には夜の闇が口を開けていた。
 決して希望の様な英雄でもなければ、正義の味方でもない。
 自分すらあの赤い滴になっていただろう可能性だってあっただろう。
 けれども何故か恐怖すらなく――いや、恐怖すら今は高揚に感じた。
 この瞬間を共有した小指を見る。
 今までより熱のある日々を送れるような、そんな根拠のない自信。
 湧き上がるそれを抱いて少女は赤い部屋を後にし、黒い影を追った。





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