――捕まった時にはもう遅い。



鈍色の情事



 帝国直轄領の西の外れ。
 治安の悪さで有名なこの街も、ようやく夜から朝に変わろうとしている所だ。
 そんな街の古びた安宿の一室の寝台に1組の男女が居た。

「ホントの事、言う気になった?」

 悩ましい声音で訊ねているのは、20代半ば程の女だった。
 しっとりとした黒髪の美しい彼女は、下着姿で男の腹に馬乗りになっていた。
 男の方はくすんだ赤毛のまだ10代後半と思われる少年だ。
 同じように衣服を脱いでいるが、女が上に乗っている事で自由を奪われているばかりか、
 首元には鈍い色の刃物が突き付けられている。

「どちらでもないって、信じてもらえないかな」

 彼は命の危機に晒されていると言うのに、少し困ったような表情を浮かべただけだった。

「今はどちらでもなくても、どちらかに売り込む気でしょ」

 この街には大きな勢力が2つある。
 彼女は今、片方の組織から追われている身だ。

 麻薬で勢力を拡大した首領の愛人だった彼女が、
 極秘だった麻薬の精製方法を記した手帳を奪って姿を眩ませたのが数日前の事。
 そして逃走を手助けするはずだった仲間が現れず、
 身を隠す所を探していた彼女に彼が声を掛け、
 単純な口説き文句に簡単に乗った振りをして、宿へと向かったのが数時間前。
 そして、彼女が短剣を彼に突き付けたのが数分前。
 改めて密偵か刺客かと問われたのが数秒前だ。

「じゃあ、まぁそう言う事で良いよ」

 疑惑の渦中の彼は、面倒そうにそう言った。
 先程から否定はしているが、良い訳や抵抗をする気が一切ないようだ。

「で、俺を殺すの?」
「単純にそうする気なら、もう少し前にしてるわ。
 …殺すのはもったいないなと思ったの」

 余裕の笑みを浮かべながら彼女は刃物を握ってない方の手で、彼の鎖骨をなぞる。

「味方になるなら、殺さないわ。
 今すぐ死ぬか、あたしに付いて味方になるか、どっちがいい?」

 鎖骨から筋肉の線にそって指を滑らせる。
 鍛え上げられた筋肉を見ると、迂闊に対象に近付いてしまうような若さを覗けば腕が立ちそうだった。

「付くって、そもそも何しようとしてるんだ?
 レインヤード家に追われてるって事は、
 手帳を手土産にデコタ家に寝返ろうって算段?」
「爺の愛人に嫌気がさしたのに、単純にそんな事する訳ないじゃない。
 けど、デコタ家に接触する気なのは正解よ。
 乗り換えると言うより後ろ盾を得て独立するのが目的」
「手帳を取り上げられて、殺されるのがオチだろ」
「そんなの解ってるわ。
 だから、あたしは手帳を奴らの目の前で破るのよ」

 そこで初めて、彼の表情が変わった気がした。

「中身は、あたしが覚えてる。
 これで向こうはあたしを殺す訳にはいかないでしょ」

 さすがに驚いたようなその反応に、彼女は気分を良くして続ける。

「麻薬の製造を受け持つ事で、
 あたし自身、相当な地位を手に入れられるわ」

 第3の勢力として台頭する事も不可能ではないだろう。
 ひと財産気付いた後は足を洗って日の当たる世界に戻っても良い。
 どちらにしても枯れた老人にささやかな贅沢と引き換えに若さを差し出すよりは有意義だ。

「君には、あたしの護衛兼愛人になってもらおうと思うの。
 …どっちの勢力に付くよりも良い思い、させて上げるわよ」

 とどめの様に囁いて、彼の唇に触れる。
 先程まで的確な疑問点を突いて来た彼は何か考え込むように黙っていた。

「何か考える事なんてある?」

 断ったら死なのだ。
 思わせぶりな態度など取る必要はない筈である。
 しかし彼は、妙に妖しい笑みを浮かべた。

「いや、もったいないな、と思って」
「え?」

 僅かな既視感。
 視界が反転するのに、1秒も掛からない。
 認識出来たのは、手首を握られた熱さだけだった。

「美人で、悪知恵も働いて、度胸もある。
 そんな女が今日1人この世から消えると思うと、
 もったいないなと思ったんだよ」

 形勢は完全に逆転していた。
 寝台に仰向けになった彼女の上には、彼が乗っている。
 両手首は片手で縫い止められており、先程まで確かに彼女の手に合った短剣も取り上げられていた。

「あの薬、あんまりばら撒かれると困るんだよな。
 これ以上増えると一般人にも出回るだろうし、
 デコタ家まで参入されるとこの辺の勢力の均衡が崩れる」

 年齢に似つかわしくない余裕と艶やかさ。
 先程までは少し背伸びをした若者にしか見えなかったが、容姿は変わらないのにまるで別人だった。

「だから用があったのは、その手帳の中身でさ。
 それさえ出回る前に処分出来れば良かったんだけど」

 どちらでもない、という彼の言葉は本当だった。
 そこに含まれている真実語られていなかったが。

「あんたの中にもあるんだろ?仕方ないよな」

 彼は「手帳の中身を処分」しに来たのだ。
 中身は全部覚えていると豪語した彼女。
 その意味を理解出来ないほど彼女は愚かではない。

「…あたしを殺すの?」

 つまらない女として終わりたくない意地だけで、先程のやり取りをなぞるよう口にした言葉は震えていた。
 彼はその言葉に優しさすら感じる笑みで答えた。

 すぐに手帳を奪うような真似をしなかったのも、
 彼女がその中身についてどれくらい知っているか確認するまで泳がせていたのだろう。
 何も知らないで手帳を売るだけなら、彼は殺さないつもりだったのだ。
 その場合は追って来た勢力に嬲り殺されていただろうけれど。
 恐らく仲間が現れなかった時から始まっていた。

 彼女を見下ろす、冷めた様な瞳の色にはこれから人を殺そうと言うのに狂気の欠片すらない。
 特別な恐れも、喜びもない。
 それがかえっておぞましい事に思えた。
 空気に晒された肌は、逃れられない死への恐怖で冷え切って行く。

「ああ、せっかくだし、あんたにも選ばせて上げようか」

 そんな彼女を憐れむように、彼は彼女に身を寄せた。

「今すぐ死ぬか、愛人ごっこでも楽しんで死ぬか」

――どっちが良い?

 囁かれた言葉は一瞬とは言え状況を忘れ、失っていた体温すら取り戻すくらい、甘いものだった。





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