――誰にも知られない暗がりで。
闇夜と逢引
帝国の西、カルベルシュ領にその学び舎を構える聖アストライア第ニ学園。
他の学園と同じく全寮制であるこの学校のいつもは騒がしい男子寮も、さすがに深夜は静まっていた。
消灯時間をとうに過ぎ、むしろ起床の時間が近付いて来た頃、学園を取り囲む高い壁を人影が越えて来る。
人影は迷うことなく男子寮の壁を、窓枠や雨樋を利用して音もなく登り、鍵の掛かっていない3階の窓の中へと入って行った。
「お帰り」
同室の友人が窓から床に降り立った時に、2段になった寝台の上から声を掛けた。
寝台から身を起こしたアスィードに、ウェルストは眉を寄せた。
「ああ、悪い。起こしたか」
生真面目なアスィードは夜に寮を抜け出したりしない。
きっちりと消灯後に眠りに付いた彼を起こしてしまったと思ったらしい。
アスィードはほんの少し差し込む月明かりでも映える金髪をくしゃりとかき上げると、紫の瞳を瞬かせた。
「いや、少し前から目が覚めてたんだ」
彼は軽く首を横に振ると、窓の外を気にする。
それにつられる様にウェルストも同じ方を向いた。
くすんだ赤い前髪から覗く濃灰色の切れ長の瞳が、ほんの少し細められる。
「喧嘩か何か、街で騒ぎがあったみたいだからな。
騒々しい気配が伝わってたんじゃないか。
お前神経質だしな」
神経質とまで言われる程だとは思わなかったが、心配事などあると眠れなくなる方なので否定はせずにおく。
「それにしてもすごい甘い香り何だけど、また女性と遊んでいたのかい?」
強い香りだがほんの少し覚えがある。
時折ウェルスト宛に届く差し出し人の名前のない手紙に同じ香りが付けられていた気がする。
「まぁ、そんな感じ」
そう気のない返事をしてからウェルストは、ちょっとこれは甘するんだよな、と呟いた。
羽織っていた黒い上着を無造作に椅子に引っかけると、護身用にといつも持ち歩いている短刀を帯革ごと外し、部屋着へと着替え始める。
「個人的な付き合いに口出しするつもりはないけどさ。
刺されたりとかしないでくれよ?」
彼が夜に寮を抜け出すのは今に始まった事ではない。
唐突に投げかけられた心配事に、友人と呼べるようになって数カ月のウェルストは怪訝な表情を浮かべた。
「は?誰に?」
「いや、誰って訳じゃないけど。
例えば君の付き合いのある女性とか、その女性に恋慕する男とかさ」
痴情の縺れで起こる事件は大小いつも新聞に載っている。
女性から好まれそうな要素を多く抱え、また実際に色々な女性と付き合っているらしいウェルストが、
同じように当事者になってしまわないとも言い切れない。
しかし本人は的外れな心配だとでも言いたそうに、苦笑するだけだった。
「そんな下手な事はしないさ」
「でも結構この街って夜は治安が良くないからさ」
この学園がある街はカルベルシュ領地ではあるが、帝国直轄領、バルジス王国との境界が近い大きな街の為、
逗留する商人や傭兵達、そこを客層にする店だけでなく、日の当らないような影の部分も多い。
「こないだも君の出てった夜は、
表だっては言えないような組織同士の抗争があったじゃないか。
随分人も死んだって言うし、
たまたま夜遊びの途中に巻き込まれる事もあるかもしれない」
「そんなでかい抗争何て滅多にないだろ。
仮に巻き込まれたとしても、適当に逃げ出して来るさ」
「君は要領も良いし、大丈夫だとは思うけど…」
そこまで言って、ふと脱がれた彼の上着が気になった。
「上着の袖口、汚れてない?」
何か違和感があると思ったら、黒い服の為解り難いが一部だけ濡れた様に色が変わっていた。
「ん?ああ、汚してるな。気付かなかった」
彼はよほどの失態だと思ったのか、珍しく不機嫌そうに舌打ちした。
少し不思議に思ったが気に入った服だったんだろうなと思って、彼はその後起床時間までぐっすり眠った。
すぐに洗濯に出したので汚れは残ってないと翌日聞いただけで、何で汚したのかも訊かなかった。
その後、深夜の騒がしさは事件であり、帝国ギルドの傭兵と闇業者に死傷者が出たと夕刊で報じられ、
アスィードはウェルストにやっぱり夜の街は危ないよと心配をした。
大丈夫だと笑みでかわす友人が、その件に係わっていたとは露ほど知らず。
袖に付いた汚れが赤黒いものである事。
昨日まで身に着けていた短刀が使い物にならなくなって、新しい物に変わっている事。
甘い香りが別の香りを誤魔化す為に付けられている事。
彼の出て行った多くの夜は、報じられたり葬られたりした事件があった事。
それらすべての意味を同室の友人が知るのは、まだ何年も後の事。
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