――同じ高みに昇っても
見えるものが同じとは限らず…
夢を叶えた少女 夢を見なかった少女
その子は美しい少女だった。
その子は頭の良い少女だった。
その子は何でもこなす少女だった。
その子はよく笑う少女だった。
それなのに少しも幸せそうではなかった。
「あんたのやりたい事って何?あんたそれで幸せなの?」
『幸せって何?』
はっと彼女は顔を上げた。
どうやらうたた寝していたらしい。懐かしい夢を見た。
ずり落ちた眼鏡を掛け直し、白衣の襟元を整える。
「どうしてるのかしら…」
半端な長さの茶髪を掻き上げぽつりと呟く。
ここは特に何もない辺境の村だ。
典型的な田舎で彼女が帰ってくるまで医者すらいなかった。
クライザ=ソディスは小さい頃からの夢を叶えた事になる。
彼女は自分の村の人達を支えて行きたいという一心で帝国最高峰の医学学校で学び、
研究室や貴族、高官からの誘いを跳ね除け帰って来た。
狭い診療所で大した礼金も貰えないが満足している。
「よお、姉貴!元気してる?」
突然の来訪者に彼女は特に驚きもしなかった。
彼女の弟に半眼で応える。
「何?元気にしてちゃ悪い?」
「姉貴知ってる?今珍しく、旅人がこの村に来てるんだ」
「知る訳ないでしょ」
冷たい彼女の言葉を気にする訳でもなく彼は続ける。
「なぁ、見に行かねぇ?何か道を尋ねてるとかで、ラナのとこにいるって」
「あんたねぇ…」
弟の野次馬根性を諌めようと口を開いたその時、診療所の扉が勢いよく開いた。
「クライザ!!」
同じ村の若者だった。
何だか切羽詰った表情で走って来たのか息が切れている。
「こ、子供…っが、崖から落ちて…今運ばれて、来…」
平穏な田舎に緊張が走った。
「邪魔だ!どいてくれ!」
小さい村だ。
話はあっという間に広がり怪我人が運び込まれる前には人々が診療所の周りに集まっていた。
そこに子供の乗った担架が2つやって来た。
1人の子はぐったりと担架に身を預けており、もう1人は痛みからか血に驚いてか泣き喚いていた。
「ちょっとどいて!そっちの子はそこの診察台に…」
取り敢えず泣き喚く体力があるなら大丈夫だろうと、まず意識のない子供に近付いた。
しかし突然彼女は腕を捕まれた。
「うちの子あんなに泣いてるんだよ!早く手当てしてやって!」
泣いている子の母親が彼女を引き止める。
嫌な予感がしながらその女性を諭そうとすると別の声が割り込む。
どうやら意識がない子の母親のようだ。
何やら激しい言い争いが始まった。
「ちょっと…止めて下さい!!退いて…治療を始めますから!」
人の波を掻き分け――どうしてこう田舎は暇人が多いのだろうか――叫ぶ。
騒ぎは収まりそうにない…と思ったその時、
「手伝いますよ」
喧騒に女性の声が割って入った。
その場の視線が一点を追う。
「私が1人診ます。一緒に診れば争う事もないでしょう?」
そう言ってにっこりと笑う女性は金髪に濃紺の瞳の美女だった。
手には金の文字盤――紛れもない帝国公認の医師免許。
そしてその顔は…。
「レタリス=ラグジィナー!!」
彼女は懐かしい名前を呼んだ。
「ありがとう。助かったわ」
治療に使った道具をかたづけながら彼女はレタリスに話し掛ける。
子供達はいずれも軽傷で治療後家に帰って行った。
自宅で療養すればすぐに元気になるだろう。
「うん。大した事がなかって良かったね」
笑顔でレタリスが応える。
つられてクライザも微笑む。
「でも、本当に久しぶりね。手紙出したのに返事なかったから心配してたのよ」
「ごめんね、クライザ。村を出てたから」
レタリスの言葉にクライザはその動きを止めた。
「…そうよ。あんた何でこんなとこにいるの?」
思えば当たり前の疑問だったが、ばたばたしていて忘れていた。
「えーとね。サヴェスタっていう街に行くのに…」
彼女は質問に対してのんびりとした調子で答えようとした。
それに対して、解っていたかのようにクライザは言葉を替える。
「そうじゃないの。あんた父親に呼ばれて自分の村に帰ったんでしょ?
忘れないわよ。首席卒業のあんたが里帰り。
今何してて、何の為にサヴェスタに行くの?」
作業を中断し、一字一句聞き逃さぬように向かい合う。
「私今ね、ギルドの傭兵やってるの」
「…は?」
あまりにも予想外の返答にクライザは間の抜けた声を上げた。
その短い単語を聞き取れなかったとでも思ったのか、レタリスは繰り返した。
「傭兵。サヴェスタにはね今度の依頼の…」
「傭兵?傭兵ですって!?」
その単語の意味を理解する。
傭兵、金で雇われる者、最近の流行、危険。
「うん」
クライザの心情には気付かず、レタリスは素直に頷く。
混乱に近い自分の思考回路を落ち着かせようと、クライザは言葉を紡いだ。
「ちょっと、ちょっと待って。
…最初から、あんたが村に帰った時から順を追って話してくれる?」
レタリスは大きく頷くと、少し考えながら話し出した。
「あの後、家に帰ったらね、父さんがお金持ちと結婚しろって。
で、その準備をしてる期間に村で事件が起こったの。
その時ちょうど村にね、ファイが…あ、ファイの事は後で紹介するね。
ファイは傭兵で、父さんは村を代表してファイに事件についての依頼をしたの。
ファイは依頼を果したんだけど父さん契約金を払いきれなくて、
同一価値以上のものとして私が代わりにファイのものになったの。その後、私も…」
「待って!待って!!」
クライザは再びレタリスの台詞を遮った。
そして、恐ろしい事実を口にする。
「あんたそれ、ひょっとしなくても身売りさせられたんじゃ…」
「うー…そうとも言うのかな?」
のほほんとレタリスは答える。
「そうとしか言わない!!!大体人身売買は違法でしょうが!?」
「あ、それは大丈夫だよ。私ちゃんと同意したから」
「同意するなあぁ!!あんた、私の学生時代の努力を無駄にしてくれて…
あれだけ知らない奴に着いて行くなって言ったでしょうが!?」
「ファイは家に泊まったよ?」
小首を傾げる。
怒られている理由が解らないといった感じだ。
「そういう問題じゃない!!多少知っても売られるなぁ!!
例え知ってる奴でも自分を売るなぁ!!」
何だかやるせない気分でクライザは叫ぶ。
「クライザ、怒ってる?」
レタリスは困ったように聞いてきた。
「呆れているのよ!何でこうも自分を大切に出来ないのよ…」
さすがに怒鳴り疲れて後半はほとんど呟くような形になった。
「そうだ、ファイを紹介するね」
クライザの焦燥を他所にレタリスは明るく言った。
診療所から出て行く背中を見ながらクライザは口を開きかける。
『あんたそれで幸せなの?』
喉元まで上がってきた台詞をクライザは飲み込んだ。
レタリスが男を連れてきた。
我知らず、ごつめの助平親父を想像していたクライザは少し面食らった。
歳はレタリスと同じくらいか。
女性としては長身なレタリスと並んでも見劣りせず、レタリスよりも背が高いクライザが見上げるほどの背丈。
実際にはどうか知れないが背の割には細く見える。
右耳に1つ、左耳に2つ耳飾り。
腰には中型の剣が1本吊り下がっている。
鈍い茶色の短髪と髪よりは幾分か明るい茶色の瞳は平凡だが、顔立ちは整っていると言っても良いだろう。
しかし、その顔にはまったく表情がない。
むしろ、無表情すぎて怖い。
彼はクライザの無遠慮な観察にも動じていないようだ。
「ファイ。私の同級生で友達のクライザ」
いつもの笑顔で紹介を始めるレタリス。
「こっちは先刻話したファイ。
すごく強くてね、足速くてね、傭兵の世界では“閃光”って通り名で呼ばれてるんだよ」
(何処の世界に自分を買った男をにこやかに紹介する女がいるのよ…)
普通ならこういう状況ではまず握手なんぞをするのが定義なのかもしれないが、
クライザはそんな気になれなかったし、ファイの方もそんな素振りは見せなかった。
一瞬の沈黙の後、クライザは口を開いた。
「レタリス。ちょっと彼と話しても良いかしら」
「え?私は良いよ」
そう言ってファイの方を見る。同意を求めたのだろう。
「…何を」
ファイが呟くように発した言葉は何の感情も込められていない。
何となく意味すらないのではないかと思われ、反応が遅れる。
「何…って、色々聞きたい事があるから…。いえ、取り敢えず聞いて頂戴」
「私はどうしたら良い?」
レタリスが聞いてきた。
クライザが口を開くよりもファイの言葉の方が早かった。
「ここにいろ」
「うん」
レタリスへの命令口調と先を越された事への悔しさでむっとするが、平静を装う。
「まぁ、その辺に座って」
クライザがそう言うと、ファイは近くにあった背もたれのない長椅子に腰掛けた。
その横にレタリスが続く。
何も知らずにぱっと見れば似合いの恋人同士に見えなくもない――と、自分で思いついた事に更に腹立たしさが増す。
「えーと…レタリスを買ったんですって?」
「報酬として連れて来た」
肯定の意味なのか、彼女の言い方を訂正したのか。
クライザは後者として受け取った。
「何でも良いわ。とにかくあなたがレタリスを村から出して、傭兵にしたんでしょ」
彼は特に何も言わずにクライザを見た。
「あなた、レタリスに何させる気?」
クライザは強い口調でファイに質問した。
「怪我の治療と俺の死角を補わせている」
彼は感情のない声で即答した。
さすがに早くてクライザも言葉に詰まった。
数秒後言葉を発する。
「…何でレタリスなの。そのまま売る訳でもなく何で連れまわすの?」
「ここまでの応急処置と戦闘能力を持つ奴がいたらお目にかかりたいね」
これまた即答。
「戦闘…レタリス、あなた強いの?」
「私ね“弦月”って呼ばれてるの。ギルドでファイと同じ階級に移行されたんだよ」
軽く傭兵内の専門用語を交える。
「あんた…ね、そんな事しなくても十分やってける腕があるのに…
あんたを必要としてた人がいっぱいいたのに。
あなた、何でそんな事やらせてるの?」
熱を入れて、ファイをびしっと指で示す。
結構失礼だ。
「それが?」
抑揚のない声が入魂の台詞に水を差す。
しかし、水にも負けず彼女は燃え盛る。
「何!?そのお前には関係ないぞと言わんばかりの態度!!
私が1年と半年前まで可愛がってたレタリスをそんないい加減な理由で
何処の馬の骨とも知らないあなたの元に置いときたくないのよ!!」
息継ぎもせずにそれだけを一気に言い放つ。
溜息を吐き、少し落ち着いて続ける。
「で、レタリス。一体いくらで売られたの?」
レタリスはファイに倣うかのように即答した。
「帝国金貨40枚」
「何そんなはした金で売られてるのよ!?」
また熱を上げて叫ぶ。
今にも掴みかからん勢いだ。
ちなみに帝国金貨40枚で辺境の家なら数年間は遊んで暮らせる。
「売られたって言うか、契約金がそれだったんだよ」
「闇競売にかければ数百から数千はかたいな」
クライザを他所にファイがさらっと言う。
そんな彼を一睨みして彼女はレタリスに向き直る。
「こんな男のとこにいる事ないわ。私が買い取る!こっちにいらっしゃい!」
言うが早いか彼女を引き寄せようと腕を取る。
しかしファイがレタリスを自分の方に抱き寄せた。
「こいつは俺のものだ。譲るつもりはない」
「何が俺のものよ。レタリスはレタリスのものよ!」
「クライザ…」
レタリスは少し複雑そうな顔をした。
そんな彼女には構わずにクライザは声の調子を強めて言う。
「あなたがこの子を幸せに出来るの!?」
ほとんど勢いに任せた言葉だった。
「幸せって何だ?」
ファイの台詞がその場を完全に沈黙させた。
「あ……」
クライザは軽く身体を仰け反らせるような体勢で絶句していた。
しばらくして、レタリスの腕を放して告げる。
「レタリスちょっとそっちの部屋に行ってて」
レタリスは驚いた表情をしてから、ファイに目で問い掛ける。
彼が何も言わなかったので承諾の意ととったらしい。
振り向く事もなく隣の部屋に向かった。
扉が開き、そして閉まる音。
「あなた、あの子の事どれくらい知ってる?」
ファイは何も言わなかったが元々答えを欲していた訳ではないらしい。
すぐに彼女は言葉を続ける。
「あの子は女性としては最年少で入学して、過去の学生…いえ、教授の中でも指折りの医者だった。
何でも出来る子だったけど、何にも心に持ってない子だった。
人の言う事ばかり気にして…自分でやりたい事すらない子で」
そこまで話して目線を遠くにやる。
「目を離すと変な男に絡まれるし…」
「知ってる」
「あの子は…1人じゃ生きていけない子なのよ」
「知ってる」
先程と変わらぬ調子でファイが呟く。
それを聞いていたかどうかは解らないがクライザは真っ直ぐファイの方を向いた。
「あなた、レタリスを幸せに…いえ、悲しましたりしない?」
今度は確かに彼に答えを求めた。
「知らねぇ」
授業中の質問だったら確実に殴られていそうな言葉だった。
「そうね、解る訳ないわね」
しかし、クライザは満足だったのか苦笑しながら言った。
踵を返して自分の椅子に座る。
彼女が座り終えるのを待ってファイが口を開いた。
「あいつは取り敢えず隣りに他人がいれば良いんだ」
思えば彼が自主的に発言した唯一の言葉だったのかもしれない。
その言葉を聞いてクライザは苦笑を自然な笑顔に変えた。
「…あなた意外と解ってるのかもしれないわ」
そう言うと自分の切り替えをする為に1度深呼吸をした。
「いいわ。認めてあげる。でもあの子を捨てたり、変な事したら許さないから!」
娘の彼氏を前にした父親のような尊大な態度で言い放たれた言葉を、
やはり考えを読む事の出来ない無表情でファイは聞いていた。
心に響いたのか、始めから許可など求めてないからどうでも良いと思っているのか。
前者でない事は確かであろう。
すっかり日も暮れてしまい予定を変更して2人はクライザの家に泊まる事になった。
ファイは患者用の寝台をあてがわれ、レタリスはクライザの部屋に招待された。
布団に潜り込むレタリスにクライザはファイの事をどう思っているのかを尋ねた。
「ファイ、ね。私に合わせて歩いてくれるの。
歩幅随分違うんだけど。それが、私が隣りにいても良い印なんだ」
ちょっと予想外の返答だった。
(もっと的外れなことを言うと思っていたけど…)
良い出会いだったんだと思った。
妹のようだったレタリスが理由と内容はともかく男のものになったというのは悲しかったが。
そんな事を考えているとレタリスがころんと寝返りを打つ。
「でも、久しぶりだなぁ、寝るときにファイが隣りにいないのって」
その台詞にクライザの思考は完全に停止させられた。
「あんた…あの男と一緒の部屋で寝てるの…?」
出来るだけ抑えた声は軽く震えていた。
「うん。宿だったら同じ部屋で。野宿の時はもたれ掛からせてもらうの、温かいし」
その言葉が言い終わらぬうちにクライザは立ち上がった。
部屋にある棚の中からいくつかの瓶を取り出しその中身をぶちまけた。
そのままそれを机の上のすり鉢に入れる。
「クライザ、何磨り潰してるの?」
突発的な彼女の行動の意味を計りかねてレタリスは問うた。
「下剤…朝ご飯に入れてやる…」
彼女は自分にしか聴こえないように呟いた。
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